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「書く人」と名乗ることにした|note3年目にしての自己紹介

はじめまして

ここ最近、名前の後ろにつけた「書く人」。

これはあるnoterさんが結果は伴っていなくとも
名乗ってしまえば結果はついてくる
という記事を読んで
私ならなんて名乗ろうと考えた結果でてきた名称だ。

それでもその時、深い想いを込めたていた訳ではなく、ほぼ感覚的に「書く人」と書いていた。

私は、ライター…でもなく
小説家…でもなく、コラムニスト…でもなく

それでも書くことが好きで
自分にとっての大切な自己表現で…

そんなことを考えているときにふと
私は子どもの頃から
書くことが自分にとってのカウンセリングであり
カウンセラーであったことを思い出した。

それは今もなお続いていて、当たり前のこと過ぎて「書く人」と名乗ったことをきっかけに再認することになったのだ。

私にとっての書くということ

私は小学生の頃からなかなか
生きづらい子どもだった。

低学年の頃は学校生活を楽しく
過ごした思い出もあるけれど
小学校3年生頃からその景色は一変し
女の子同士の意地悪試合は毎日のようだった。

クラスで一人だけいじめられる
とかではなかったけれど

グループの中で突然ハブかれたり戻されたり

クラスのドアを開けたその空気感で
今日から私が標的になったと分かるあの瞬間。

4年生頃までそんな毎日を送ったおかげで
高学年の頃の私はすっかり物事を斜に構えて
自分を守る子どもになっていた。
それは早めの思春期と相まって
私から笑顔を遠ざけていった。

それからきっかけは覚えていないけれど
私は心の声や叫びをお気に入りの日記帳に
書き溜めるようになる。

「今日はこんなことがあった」
そんな事実のみ書いてある日もあれば
どんなことが起きて、どんな気持ちがして
どうしたらよかったのか

といった自問自答をしていた。

そしてこの自問自答こそ
私の心を救ってくれる習慣になっていった。

自問自答というけれど

自問自答というと
自らクエスチョンからの自らアンサー
に聞こえるけれどそこに
【書くこと】が加わると
自分の中に第3者の力が宿る。
客観的・俯瞰的な視点が育っていく。

頭の中でぐるぐる考えている時とは違って
書いている過程で自分でも気が付かなかった
気持ちや、考えがペン先から生まれてくるようで
突然府に落ちるような感覚になることが何度も。

まるで見えない力が寄り添いヒントを与えてくれるような
ハッとする瞬間が訪れる。

私はそんな幼少期を経て 
※家族間の色々もあったけれどそこは割愛

幼い頃の自分自身に
そして今、苦しい渦中に居る人に向けて
「もう少し誰かに話してみようよ」
「もう少し大人を頼ってみようよ」
という気持ちから、カウンセラーを志し
臨床心理士の資格を手にするのだけれど…

必死に手にいれたはずの
「臨床心理士」という肩書は
私にとってどこか他人事で、働いていても
【先生】なんて呼ばれた日には
「いえ、違います」と心で即答していた。
クライエントさんと向き合う時間はどれも大切でそこに違和感やら何やらは
生まれてはいなかったけれど…

その後、結婚をしてフルタイムの仕事では心身ともに疲弊してしまい
仕事を辞めた後にnoteに出会った。
それから私は書くこと・読むことを楽しみ
伝えたい想いを綴る生活が始まる。

noteの街を歩きながら、スキを伝え
スキの通知にやった!と呟く。
「誰かに想いが届いたかもしれない」
その喜びは、一人で書いている時には得られないパワーがある。

それから3年目にしてやっと
私にとっての「書くこと」について
改めて向き合い言葉にしてみたいと思った。

私の思う今後の夢は
書く道中で沢山の
人・モノ・コトに出会っていくこと。

そしていつか、私の言葉が自分の想像を超えたところで、芽を出し葉となりささやかなりに誰かの傘になれる日が来たなら
どんなに素敵なことだろう。

書くことで支えられてきた私の心は
noteによって力づけられ走り出している。
目指す場所こそまだ手探りだけれど。
noteを始めた頃のワクワクより、今はもっとドキドキしている。

おわりに 

そして何者でもない私の文章を
ここまで読んでくださった方へ
感謝の花束を心より。
もしも素敵なご縁になれたなら
小躍りしながら喜びます!


書く力を伸ばすために、そしてちょこっと心を満たすご自愛のために使わせて頂きます🍀 もしよろしければよろしくお願いします🐾