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「すでに起こっている変化は何か」を問いつつ社会とコミュニティを観察することが自分の仕事である、とドラッカー氏。 1月26日 A Social Ecologist 社会生態学の視点

#1月26日  
#A_Social_Ecologist
#社会生態学の視点

マイナス3度の仙台からおはようございます。
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このNOTEは、読むだけで世の中の課題を #ドラッカー #365の金言  を使って、解決できる、そんな知力を鍛える教育エンタメNOTEです。

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さて、

こちらでは、地に足をつけた、私の体験や学びから得た
実践マーケティング記事を1日1本以上をご紹介しています。スラムダンクやすずめの戸締まりの興収について記した記事が好評いただいています。

さて、今日のドラッカー。
テキストは、『 #すでに起こった未来 』(1994年) 終章 #ある社会生態学者の回想  299〜300ページより。

彼は自分の関心ごとについてこう記しています。

私は、人間によってつくられた人間の環境に関心を持つ。

同書、299ページ

1月22日の記事で、ドラッカーは「ケインズは財の動きに関心をもち、私は人間の行動に関心をもっていることに気づいた。」と記していた。

ドラッカーの関心ごとは、あくまで人間の環境であり、人間の行動、そして、人間の仕事の仕方であり、知識を資源として働く知識労働者が社会の支配的階層になっていくプロセスであり、社会の継続性を保ちながら社会がどのように変化していくかについて。

ドラッカーはこれが、自らと他の経済学者や社会学者とは異なるところで、自らを「社会生態学者」と称するところだというのです。

さらに、ドラッカーは自らを

 重要なことは、社会生態学者の仕事は、すでに起こってしまった変化を確認することだということである。社会・経済・政治のいずれの世界においても、すでに起こった変化を利用し、機会として使うことが必要である。
 重要なことは、「すでに起こった未来」を確認することである。すでに起こってしまい、もはや元に戻ることのない変化、しかも重大な影響力を持つことになる変化でありながら、まだ一般には認識されていない変化を知覚し、かつ分析することである。

同書、313ページ

としています。

 さて、明治以来、日本では行政官僚が「政府があらゆることを行えるし、行なうべきである」という信仰を信じさせてきました。その結果が、日清・日露戦争と勝利とその後の大東亜戦争の敗戦と国家滅亡でした。GHQ占領を経て、1953年再び国家としてスタートした時には、GHQも行政組織を維持させたこともあり、政府への信仰すなわち行政官僚への信仰がその後も維持されて、公共事業などへの公金支出は適切に行われてきた、と信じされてきました。

 ここへ来て、発覚したColabo問題は、政治家と行政官僚、元行政官、そして、一社、NPOなどがグルになって法整備までして、合法的に「公金チューチュースキーム」を行なってきたことが明らかになったことです。

 同時に、すでに一般人であっても、すでに50%近い?越え?という国民負担費率という江戸時代よりも高い国民負担率を強いる「財務省」、高額の罰金を強いる「NHK」、不適切な団体へ寄付金をばら撒いている「赤い羽根募金」、不適切な研究に協力する「学術会議」、太陽光発電のスキームなど、いわゆる「公」組織や官僚が国民からの「信仰」にあぐらをかいて好き勝手に国民から金を吸い上げ、国民を貧乏に貶めていたのではないか、という考えが湧き上がっています。

この「公への不信」を打ち払うためには、公的な文書並びに会計をオープンにして、国民からの適切な監査請求に速やかに対応し、公金の不正支出を正すことが必要、という意識が芽生えたこと、これが「すでに起こった変化」と思います。

Colabo問題は、いまだマスコミが正しく報道していないにもかかわらず、SNSを通じて、すでに問題は社会共有されています。権力を使ってもみ消そうとしてもこの潮流は不可逆なことです。

戦争、疫病、そして、合法的に行われている公金不正流出への国民監視への流れは、いずれも「すでに起こった変化」であり、この変化によって、より良い行政が為されるきっかけのように感じます。

良い社会になりつつあることを信じています。今日もやっていきましょう。

追伸:

昨年書いたテキストは↓

一昨年のテキスト↓


#継続と変革の両立こそ文明にかかわる中核の問題である

 私は自然環境を研究する自然生態学者のように、人間環境に関心をもつ社会生態学者である。社会生態学とは私の造語である。しかし体系としての社会生態学は、由緒ある系譜を誇る。その最高の文献はアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカの民主政治』。である。姿勢、思考、手法において私に最も近いのは、ヴィクトリア朝時代のイギリス人ウォルター・バジョットである。社会の転換期を生きたバジョットは、当時誕生した近代公務員制度と内閣政治を民主主義の中核として捉え、銀行を機能する経済の中心として捉えた。
 その100年後、私は他に先がけて、当時新たに出現しつつあったマネジメントを、同じく新たに出現しつつあった組織社会の中核として捉えた。そしてそのすぐ後、大きく興隆してきた知識を中心的な資源として捉え、知識労働者を脱工業化、ポスト資本主義、ポスト社会主義となりつつある現代社会の支配的階層として捉えた。そしてバジョットと同じように、継続と変革の両立を社会と文明にかかわる中心の問題として捉えた。
 したがって私は、バジョットが自らを進歩的社会保守主義者、あるいは保守的進歩主義者とみなしても、保守的保守主義や進歩的進歩主義者とみなしたことは一度もないと言うとき、彼が何を言いたかったかを完全に理解することができた。

(『すでに起こった未来』)

ACTION POINT
#あなたやあなたの組織は変化の担い手になっていますか
#変革を行い#かつその変革を安定と両立させるためには何をしなければならないでしょうか

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