3月31日 From Analysis to Perception 分析から知覚へ
おはようございます。今日は3月最終日。良い3月となりましたでしょうか?今日も #ドラッカー #365の金言 からスタートしましょう。
本日 #3月31日 のテーマは、
#生態系は全体として観察し理解すべきものである 。
#部分は全体との関連において意味をもつにすぎない 。
数学者と論理学者の世界では、知覚的な認識は感覚にすぎず、疑わしいもの、神秘的なもの、捉えがたいもの、不可思議なものだった。機械的な世界観は、知覚的な認識は理性的でなく、したがって趣味の世界にゆだねるべきもの、すなわちそれ抜きでも支障のないものとした。
だが生物的な世界では、中心に位置するものは知覚的な認識である。生態系なるものはすべて、分析ではなく知覚の対象である。それは全体として観察し理解すべきものである。部分は全体との関連において意味をもつにすぎない。三五〇年前、デカルトは「我思う。ゆえに我あり」といった。いまやわれわれは、これと同時に「我見る。ゆえに我あり」といわなければならない。
新しい現実は、すべて形態的である。したがって、それらの問題を扱うには、分析とともに知覚的な認識が必要である。今日の多元社会の不均衡状態、グローバル経済、地球環境問題、緊急に提示することが求められている教育ある人間のモデルなど、すべてが形態的である。(『新しい現実』)
ACTION POINT
#成長 、 #均衡 、 #調整 、 #統合の結果としての全体の成果が重要であるとの考えは 、 #分析と知覚のいずれを重視するものでしょうか 。
本日のテキストは、昨日に引き続き1989年発刊『新しい現実』より。終章「分析から知覚へ」(382〜383ページ)
データ野球やデータベースマーケティングなど現在主流のマーケティングやコンサルティングは、データから現状を分析し、解を発見する方法。すでに89年ドラッカーは、複雑系、生態系の理論を取り込み、単に分析すること、から、一歩先に進み、いち早く「分析から知覚する」ことで「知」を、「解」を見つけることを提言していた。
それは、すでに1890年代、形態(ゲシュタルト)心理学が、我々が理解できるのは「C」「A」「T」ではなく「CAT」であることを明らかにしている。
誰もが「知覚し、感じて、行動する力」を有している。ただ、その個々の人は自らの知覚する力を、世間体やら忖度やら組織の理論で「封印」しているのではないだろうか。
その点、個人事業者や個人で活動する専門職、職人などは己の才覚で世の中を渡っていける。
すでに、大組織は、個人を切り捨て、リストラしたり、組織を収縮させ始めている。となると、組織人は、脱組織となるでしょう。でも、途切れない人脈をネットワークとした「ネットワーク社会」として活動することが始まってます。また、秘書的に活用してきた優秀な女性たちが組織の将来を見限って、どんどん活躍し始めています。この動きも楽しみです。
今日を変えていこう。愛を込めて。