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神人とは愛する妻に抱擁されている男が...と同じく...一切を認識しない状態

まずはじめに

今回もブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドよりヤージナヴァルキァ師とジャナカ王との対話による教説を引用して、真我についてご一緒に考えてみたいと思います。

ヤージナヴァルキァ師には、マイトレイーとカーティヤーヤニーの二人の妻がいて、マイトレイーの方は、いつも絶対者ブラーフマンについて夫と議論するような妻で、カーティヤーヤニーの方は家事をする普通の妻であったようです。

ヤージナヴァルキァ師がジャナカ王からいただいた財産を置いて遊行に出る前のマイトレイーが食い下がるが、結局は、その場を立ち去るヤージナヴァルキァ師との対話は以前にも触れたので繰り返しませんが、そんなヤージナヴァルキァ師が夢眠状態・熟眠状態・覚醒状態を喩えて、真我についての教説を今回は引用させていただきます。

夢眠状態・熟眠状態・覚醒状態と真我

■よく寝ている人を急に起こしてはならない

今回のヤージナヴァルキァ師のジャナカ王への謁見は、何も語らないことにするつもりでいたのですが、何でも好きなことを一つ質問することを許可していたことからジャナカ王の質問から始まります。

「人は何を光とするのですか?」の質問から「太陽を光とします」とした後「太陽が沈んだ後は月の光となります」次に「太陽も月も沈んだ後には火が光となります」次に「太陽も月も沈み火も消え果てた後では言葉(音)が光となります」次に「太陽も月も沈み火も消え果て言葉も発せられなくなった後ではアートマン(真我)が光となります」との後から以下に引用します。

七節
(ジャナカ王が尋ねた)
「それはどの自我なのですか?」

(ヤージナヴァルキァ師が答えた)
「この神人(プルシャ)は、諸器官の中にあっての認識作用であって、心臓内で光り輝いているのです。この神人は(この世とあの世に共通しているので)二つの世界の間を行き来するのです。また、考えるようにも見え、動揺するようにも見えるのです。この神人は夢眠状態にあって、(無智などの有限なる)死の形をとったこの世界を超越するのです」

八節
(ヤージナヴァルキァ師が更に答えた)
「その神人は、この世に生まれた時に悪(肉体と諸器官)と結びつけられるのです。そして、死ぬ時にはそれらの悪を捨て去るのです」

九節
(ヤージナヴァルキァ師が更に答えた)
「その神人は、この世とあの世という二つの住居を持っています。夢眠状態とは、これら二つの世界を結ぶものなのです。神人は、この世からあの世に行く時に、如何なる支度を整えているにしても、そこで幾つもの苦と楽とを見るのです。ですから神人は夢眠状態の中では、この世(覚醒時)のあらゆるものを含んだ残存印象の一部を持ち去り、自分自身の身体を脇にやり、夢の体を自分自身で作り、自分自身の有する光で自分が輝くようにさせて種々の夢を見て行くのです。この夢眠状態においては、その神人は光となるのです」

十節
(ヤージナヴァルキァ師が更に答えた)
「そこには、車も、その車につなぐ家畜も、道路も存在しません。しかし、神人は、それらの車や家畜や道路まで作るのです。そこには、種々の楽しみや喜びや歓喜も存在しませんが、神人はそれらを作り出すのです。というのも、神人は創造者だからです」

十一節
(ヤージナヴァルキァ師が更に答えた)
「これに関して、次のような詩句があります。

光り輝く白鳥(ハンサ、プルシャ)は、夢眠の中で体を離れ
内なる器官を輝かせ、自分自身を目覚めさせ
眠れる自己を照らし出し(観照し)、再び目覚めに帰り来る。

十二節
光り輝く白鳥は、不死の身にして一人行く
生気の力に助けられ、無益な体を守りおき
その体より出で去りて、心のままに(欲するがまま)飛びまわる。

十三節
夢見て眠る、光り輝く白鳥は
上下の世界に飛び行きて、種々の姿に変わり行く
異性と戯れ、時には笑い
危険に出会うに、相似たり

十四節
世の人は、その戯れを見はするが
その白鳥を、見るものは無し。

『よく寝ている人を急に起こしてはならない』と、世の人々は言っています。それというのも、かの白鳥が上手く体に帰り着かない時には、その人は医者も治せぬ難病にかかるからです。ところで他の人々は次のようにも言っています。すなわち、夢眠状態とは覚醒状態に他ならない。それというのも、覚醒状態の時に見るものを、神人は夢眠状態の時に見るからだ、と言っています。(しかし、そうではありません)夢眠状態では神人は光そのものになるのです」

(ジャナカ王が言った)
「師よ、私はあなたに千頭の牛を差し上げたい。ですからどうかもっと詳しく解脱についてお聞かせください」

十五節
(ヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人は、熟眠状態において自分自身を楽しみ、徘徊し、善と悪とを見て熟眠(サムプラサーダ、寂静)状態にとどまるのです。その後にあって再び元の状態である夢眠状態に向けて戻って行くのです。そこにあって見るものに神人は汚されることはないのです。それというのも、この神人は無執着だからです」

(ジャナカ王が言った)
「まさに、その通りです。ヤージナヴァルキァ師よ、私はあなたに千頭の牛を差し上げたい。ですからどうかもっと詳しく解脱についてお聞かせください」

十六節
(ヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人は、夢眠状態において自分自身を楽しみ、徘徊し、善と悪とを見て夢眠状態にとどまるのです。その後にあって再び元の状態である覚醒状態に向けて戻って行くのです。そこにあって見るものに神人は汚されることはないのです。それというのも、この神人は無執着だからです」

(ジャナカ王が言った)「まさに、その通りです。ヤージナヴァルキァ師よ、私はあなたに千頭の牛を差し上げたい。ですからどうかもっと詳しく解脱についてお聞かせください」

十七節
(ヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人は、覚醒状態において自分自身を楽しみ、徘徊し、善と悪とを見て覚醒状態にとどまるのです。その後にあって再び元の状態である夢眠状態に向けて戻って行くのです」

十八節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「例えば、大きな魚が河の両岸に沿って行ったり来たりしながら泳ぐように、この神人も夢眠と覚醒の両状態の間を行き来するのです」

十九節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「大空に羽を伸ばして舞う鷹や鷲が疲れ果てて羽をすぼめて巣の中にうずくまるように、この神人は夢眠状態から更に進んで、欲もなく夢も見ない熟眠状態に行こうとするのです」

二十節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人の中には、髪の毛を千分したほどの細いヒターと呼ばれる脈管があり、白、青、黄、緑、赤色の液によって満たされています。ところで、この神人が、自分は人々によって殺されると思ったり、負かされると思ったり、象に追いかけられると思ったり、穴に落ちると思ったりするのは、いわば覚醒(つまり夢眠)時に経験した危険を無智さによって、その時に、あたかも存在するかのごとくに錯覚しているからです。ですから、自分が神であり王であり『私はこの世(宇宙)であり、私は万有(一切)である』と思う時が、その神人の最高の意識状態(世界)なのです」

二十一節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「それこそ、神人が諸々の欲望を克服し、邪悪から解放され、恐れを超越した形態なのです。それはちょうど、愛する妻に抱擁されている男が、内外の一切の事柄を知ることがないのと同じく、この神人(真我)が絶対者ブラーフマンによって抱かれて内外の一切を認識しない状態なのです。それこそ、すべての欲望に対象物たる自分自身に至った(アートマンというすべての欲望を満たした)神人の状態であり、欲望と苦痛とを超越している(離れた)神人の形態(姿)であると言えるのです」

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.3.7-21

いかがですか?この対話は、ヤージナヴァルキァ師とジャナカ王という男性同士ですので男目線ではありますが、男性よりもはるかに賢い女性は理解できる内容だと思います。

正直、私が学んだ2000年5月の連休当時はよくわからなかったと思います。睡眠と転生輪廻を結びつけた教説ぐらいにしか捉えられなかったです。

意地悪ではなく、あえて、このヤージナヴァルキァ師のジャナカ王への謁見による対話から瞑想にて熟考していただければと、思っています。わからないところは内奥に潜む真我にお尋ねください。もしくは、今、あなたを導く師がいらっしゃるならば問答に挑むのも良いかもしれません。ヨーガの伝統では、師との問答によって真理を垣間見るものでもあるからです。

おそらくですが、ヤージナヴァルキァ師はジャナカ王に何も語らないつもりでいたけれども、ジャナカ王の解脱への強い気持ちに負けて更に語ってしまったのでしょう。

私もヤージナヴァルキァ師のように、以下に引用を続けますね。

■解脱した神人の最高の境地とは?

二十二節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「この状態においては父はもはや父ではなく、母はもはや母ではなく、諸々の世界ももはや諸世界ではなく、諸神も諸神ではなく、諸ヴェーダ聖典ももはやヴェーダ聖典ではないのです。また、この状態においては盗人は盗人ではなく、聖職者を殺した殺人者も殺人者ではなく、賊民チャーンダーラもチャーンダーラではなく、賊民パウルカサもパウルカサではなく、修行僧も修行僧ではなく、出家遊行者も出家遊行者ではないのです。神人の形相は、善行に影響されることがありませんし、悪行に影響されることもないのです。というのも、神人は心臓内のすべての憂いを超越している存在だからです」

二十三節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人が熟眠中に見ることをしないのは、実際は見ているのですが見るということには関与しないからです。それというのも、見る者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその見る能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として見ることのできる第二のものは、真に存在することはないのです」

二十四節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人が熟眠中に嗅ぐことをしないのは、実際は嗅いでいるのですが嗅ぐということには関与しないからです。それというのも、嗅ぐ者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその嗅ぐ能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として嗅ぐことのできる第二のものは、真に存在することはないのです」

二十五節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人が熟眠中に味わいことをしないのは、実際は味わっているのですが味わうということには関与しないからです。それというのも、味わう者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその味わう能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として味わうことのできる第二のものは、真に存在することはないのです」

二十六節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人が熟眠中に語ることをしないのは、実際は語りかけているのですが語りかけているということには関与しないからです。それというのも、語りかける者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその語りかける能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として語りかけることのできる第二のものは、真に存在することはないのです」

二十七節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人が熟眠中に聞くことをしないのは、実際は聞いているのですが聞くということには関与しないからです。それというのも、聞く者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその聞く能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として聞くことのできる第二のものは、真に存在することはないのです」

二十八節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人が熟眠中に考えることをしないのは、実際は考えているのですが考えるということには関与しないからです。それというのも、考える者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその考える能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として考えることのできる第二のものは、真に存在することはないのです」

二十九節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人が熟眠中に触れることをしないのは、実際は触れているのですが触れるということには関与しないからです。それというのも、触れる者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその触れる能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として触れることのできる第二のものは、真に存在することはないのです」

三十節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人が熟眠中に知ることをしないのは、実際は知っているのですが知るということには関与しないからです。それというのも、知る者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその知る能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として知ることのできる第二のものは、真に存在することはないのです」

三十一節
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「ある別のものが存在するが如くに思われる場合には、そこで初めて一方が他方を見ることができるわけですし、他方を嗅ぐことができるわけですし、他方を味わい、他方に語りかけ、他方を聞き、他方を考え、他方に触れ、他方を知ることができるわけです」

三十二節
(更に)ヤージナヴァルキァ師がジャナカ王に教えた。
「彼の神人は水のように(透明に)なり、唯一不二なる(二人ではない唯一無二の)存在にして、観る者なのです。これこそが、絶対者ブラーフマンの世界なのです、王様」

(更にヤージナヴァルキァ師がジャナカ王に教えた)
「これこそ神人の境地であり、最高の栄光であり、最高の世界であり、神人の最高の歓喜なのです。他の生類はこの歓喜の少しばかりの分け前にあずかって生きているのです」

三十三節
(更に)ヤージナヴァルキァ師が教えた。
「ある人が肉体的にも強健で、多くの人々の中でも経済的にも豊かであり、他の人々を指導する立場にも立ち、人が喜ぶすべての要素を持ち合わせているとしたら、これが人間の最高の歓喜と言えることです。

しかし、これら人間の百の歓喜は、自分の世界を勝ち得ている祖霊たちの一つの歓喜なのです。

しかし、自分の世界を勝ち得ている祖霊たちの百の歓喜は、ガンダルヴァの世界における一つの歓喜なのです。

しかし、ガンダルヴァの世界における百の歓喜は、(護摩供養や布施の)行為によって神界に達した神々の一つの歓喜なのです。

しかし、行為によって神界に達した神々の百の歓喜は、生まれながらに神である神々と、ヴェーダ聖典に通暁して邪悪でなく諸欲に翻弄されない人物の一つの歓喜なのです。

しかし、生まれながらに神である神々の百の歓喜は、プラジャーパティの世界の一つの歓喜なのです。

しかし、プラジャーパティの世界の百の歓喜は、ブラフマンの世界の一つの歓喜であり、また、ヴェーダ聖典に通暁して邪悪でなく諸欲に翻弄されない人物の一つの歓喜なのです。

これこそ最高の歓喜なのです。王様、これこそ絶対者ブラーフマンの世界なのです」

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.3.22-33

誰しも熟眠時に神様の元へ還っている?」にて触れたように、熟眠時に心臓内部小空間において鎮座する絶対者ブラーフマンに合一していているのですが、起床することで(覚醒時に)個別化した無智な個我(ジヴァートマン)となって、真我(アートマン)とは隔てられた形となります。

つまり、真我(アートマン)と隔てられた形とは、「ジャナカ王に授けた教説真我を悟る聖者とは?」において触れたブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4篇4章22節の「種々の世界に区切りをつける堤」という防波堤から逸脱してしまった状態だと言えます。

ここで注目していただきたいのは、神人とは、個別化している無智な個我としての私たちが熟眠中に認識の対象とする第二の存在がない状態であるように、また、肉体や欲望や諸心理器官との結びつきから解放されている状態と同様に覚醒時において観照者として最高の歓喜を味わっていることです。

そのようなものだと理解してもう一度上記に引用したものを読んでみてください。いかがでしょうか?

神人が夢眠状態と同じように覚醒状態において、種々の楽しみや喜びや歓喜をもたらす形態(ルーパ)を味わうための悪(肉体と諸器官)を作り出しているとウパニシャッドでは教えていますが、そのことについての創造者ではなく誤創造したのだと私は理解しています。

こんなことを書くと混乱するかもしれませんが、本来、神人は夢想することはないのだけれど、夢想し誤創造した異世界に私たちは住んでいると信じている、としたらどうでしょうか?

…このことはあくまでも仮説なので実証実験により体験しない限り確証とはなりませんし、劣等感が強い自我状態で浅く理解したつもりで教団を作ったオーム真理教の教祖のように勝手な解釈で悪害をもたらすことからすると、諸刃の剣となる仮説であることもお伝えさせていただきます。

最後に

このnoteを始めるきっかけは、次女がヨーガやピラティスの教師となることで、ヨーガの技術やヴェーダーンダ哲学について、父として生きている間に伝えておくためでした。

やり始めると、こんなに長くなるとは…

思ったよりも書けるんだなと想う今日この頃です。




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