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It's In Every One Of Us.

まずはじめに

今回は、ヴェーダーンダ哲学において代表されるような「サット・ティヤム」というチャーンドギヤ・ウパニシャッドの中に記述されているウッダーラカの思想をご紹介します。

自己の内奥にそれを見出す

■ウッダーラカについて

ウッダーラカ・アールニは、クル・パンチャーラ属のバラモン(婆羅門)でガウタマ家系に属し、父はアルナ・アウパヴェーシであった。クル・パンチャーラ属は中国地方すなわちガンガー河とヤムナー河の中間の平原地帯に居住していて、当時は、最も強大で文化的にも最も進んでいた部族であったとのことです。

父のアルナが真実を語ることに祭祀の実行と同じ価値を認める教説の信奉者であったのだが、父が息子のウッダーラカに太陽を諸ヴェーダという花から集められた蜜として瞑想すること、中天にかかって沈みも昇りもしない太陽をブラーフマンと知ることを教えたと伝えられている。(『古代インドの神秘思想』服部正明著より)

以下にチャーンドギヤ・ウパニシャッドにおいて、父ウッダーラカが息子のシュヴェータケートゥへと「サット・ティヤム」という「実在」と「真実」について口伝します。

■サット・ティヤムについて

この「実在」とは、客体的に思惟されるものでもなく、また、思惟されたものでもなく、「それ」への帰入、あるいは、「それ」との合一体験を通して自らの根底に見出されるものであることを口伝している箇所を以下に引用します。

父「愛児よ、あたかもミツバチが蜜を作る時に、種々の樹木の液を集めて同じ味のものとし、しかも、その中で、私はあの樹の液である、私はあの樹の液であると区別し合うことのないように、まさにこのことと同じように、愛児よ、この世のすべての生類(被造物)は、有(実在)に合一して、我々は有に合一しているとは知らないのだ」

「この世において、虎であれ、獅子であれ、狼であれ、猪であれ、蛾であれ、虻であれ、蚊であれ、その他の如何なるものであれ、それはその存在のままでいるのだ」

「かの微粒子はといえば、この一切はそれを本性とするものである。それは真実である。それはアートマンである。それは汝である、シュヴェータケートゥよ、と」

子「尊き父上は、さらに、私に教えていただきたい」と。

父「愛児よ、よろしい」と、彼は言った。

チャーンドギヤ・ウパニシャッド6.9.1-4

アートマンという実在に合一したままこの世においての生類と同じように、ヒトは、私は何某であると信じて生きているのだが、父ウッダーラカは息子のシュヴェータケートゥに「アートマン」が本性であり「それは汝である」と教えている。

父「愛児よ、これらの東方にある諸河川は東に向かって流れ、西方にある諸河川は西に向かって流れる。それらは海から(大気中に昇って雲となり、雨として地上に降って河川に注ぎもとの)海に流入する。それは海となる。そこでは、これが私だ、これが私だと、それらの諸河川が知らないように、」
「まさに、そのように、愛児よ、これら一切の生類は、有(実在)より生じて、我らは有より生じると知らないのだ。この世において、虎であれ、獅子であれ、狼であれ、猪であれ、蛾であれ、虻であれ、蚊であれ、その他の如何なるものであれ、それはその存在のままでいるのだ」
「かの微粒子はといえば、この一切はそれを本性とするものである。それは真実である。それはアートマンである。それは汝である、シュヴェータケートゥよ、と。
子「尊き父上は、さらに、私に教えていただきたい」と。

父「愛児よ、よろしい」と、彼は言った。

チャーンドギヤ・ウパニシャッド6.10.1-3

父ウッダーラカは息子のシュヴェータケートゥに「アートマン」が本性であり「それは汝である」ことを海と河川に喩えて説いている。

父「この塩を水に入れて、明朝、私のところへ来なさい」と。

彼(息子のシュヴェータケートゥ)はその通りにした。父が彼に言った。

父「昨夜、おまえが水に入れた塩を、では、持って来なさい」と。

彼はそれを探したが、見つからなかった。溶解してしまったかのようであった。

父「では、その水をこの端から少し飲んでみよ。どうだ?」と。

子「塩辛いです」と。

父「真ん中から少し飲んでみよ。どうだ?」と。

子「塩辛いです」

父「あの端から少し飲んでみよ。どうだ?」と。

子「塩辛いです」

父「それを捨てて、私の側に座れ」と。

そこで、彼は言われた通りにした。

父「塩は常に存在するのだ」

父は彼に言った。

父「この場合に、愛児よ、実におまえは有(実在)を認めていないのだ。しかし、それは現にここに存在するのだ」

父「この微粒子はといえば、この一切はそれを本性とするものである。それは真実である。それはアートマンであり、それは汝である、シュヴェータケートゥよ」、と。

チャーンドギヤ・ウパニシャッド6.13.1-3

父ウッダーラカは息子のシュヴェータケートゥに今度は、塩と水を混ぜたことを喩えて、この世のすべてのものは「それ」を本質としていて、「それ」とは「真実」であり、「それ」は「アートマン」であると説いている。

つまり、ここでは、おまえ自身のここ、すなわち、身体に実在するアートマンを認めていないけれども、「それ」はまさしくここにあると教え、自らの内奥に潜む「それ」を見出しなさい、と。

最後に

シュヴェータケートゥ=アールネーヤという人がいた。彼の父(ウッダーラカ=アールニ)がある時彼に言った。

「シュヴェータケートゥよ。バラモンとしての修行の生活に入れ。愛児よ、我々の一族の者には、学習することなく、ただ名だけバラモンであるというような者はいない」と。

彼は十二年の間師匠につき、二十四歳で既にヴェーダを学習し、得意になり、自ら学識あるとうぬぼれて、意気揚々として帰ってきた。

チャーンドギヤ・ウパニシャッド6.1.1-2

上記から見て取れることは、ただ名だけのバラモンがいたということと、どのような修行をしたのかは書かれることはないし、書けないのだろう。引用した箇所は、父が意気揚々とうぬぼれた息子に対しての問答が教説となっている。

ヨーガとは、自らの内奥に潜む「それ」を見出す技術であることはたびたび繰り返している通りとなります。

最後に、題名となっている歌をシェアして終わります♪


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