「この世の第一原因を理解する熟考の力」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.6)
はじめに
読む前のネタバレになるのですが…
「プルシャ」と「プラダーナ」との関係をごく簡単に、インドの喩えでよく言われていることとして
「プルシャ」を輝く太陽とすると「プラダーナ」は月だと言い方がされます。
つまり、月である「プラダーナ」は自ら輝くことができません。
このことを『ヨーガ・スートラ』では、「プルシャ」を【観るもの】、「プラダーナ」を【観られるもの】としています。つまり、【観るもの】である「プルシャ」が実在するものであって、【観られるもの】である「プラダーナ」は自ら輝けないので非実在であるとしているわけです。
「プルシャ」を純粋意識という言葉で言い表すことがあるのですが、実は、意識という言葉は意識する対象があってのことで、つまり、【主体】と【客体】があるとすることで成り立つのが意識となります。
ですので、意識に純粋とつけることで、【主体】であって【客体】ではない、【観るもの】であって【観られるもの】ではないとご理解いただければと思います。
蛇足で言えば、輝いていない月は照らされる対象なので、照らす力すなわち熟考する力を用いることはできないので、この世の原因を理解することができないということです。
以下の註解は、そのような解説ではないのですが、このことを理解してお読みいただければと思います。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章六節
6節 もし、見る(熟考する)ことが二次的な意味であると主張されるならば、私たちは、「自己」という言葉の使用により、そうではないと言います。/もしも熟考の力は二次的に生じてきたものであると言われるとしても、私たちはアートマン(真我)という言葉を用いることで、そうではないと主張する。
無感覚のプラダーナが存在という言葉によって言及され、「水や火の場合と同じように、見ることは二次的な意味でプラダーナに帰属する」という主張は間違っている。
なぜでしょうか?
「自己という言葉の使用により」。「愛児よ、この宇宙は創造される前は存在(sat)のみだった」(Ch. VI. ii. 1)という導入文の後、火(熱)、水、土の創造は「それは見た...それは火を創造した」(Ch. VI. ii. 3)と述べられています。そして、テキストは、火、土、水と同様に、まさに見ている存在とを「神」という言葉で言及し、「そのような神が見た(または考えた)“さて、(私の)自己以外のジーヴァ(個々の魂/個我)として、これらの 3 つの神々(火・水・土)に入ることによって、名前と形を顕現させよう”」(Ch. VI. iii. 2)と述べています。
さて、もし無感覚なプラダーナが何らかの二次的な意味での予見者(観るもの)であると想像されていたなら、プラダーナは議論の対象となる実在であり、「そのような神である」という文章によって言及された(ほのめかされている)はずである。しかし、その場合、神は個々の魂を自身の自己とは呼ばないだろう。というのも、ジーヴァ(個々の魂/個我)という言葉は、用法や由来から、生きている(すなわち感覚を持つ)もの、肉体を制御するもの、臓器や感覚をまとめるものを意味するからである。その魂が、どうして無感覚なプラダーナの自己でありうるだろうか?なぜなら、自己は人の本質そのものだからだ。無感覚なプラダーナは、確かに、その本質そのものとして感覚的な魂を持つことはできない。
逆に、もし意識であるブラーフマンを第一義的な意味での先見者(seer/観るもの)として受け入れるなら、個々の魂に関して自己という言葉を使うことは正当化できる。「この(極めて)微妙なものであるそれ(存在)は、この(宇宙の)すべての自己である。それこそが現実であり、それこそが自己である。シュヴェータケートゥよ、汝はそれである」(Ch. VI. vii. 8)という文章もそうだし「それは自己である」と言うことによって、その文章は、その現実、その微妙な自己を、考慮の対象となる自己として提示し、次に、「汝は、シュヴェータケートゥである」という文章の中で、意識のある存在であるシュヴェータケートゥの自己としてのそれについての指示が起こる。しかし、水と火の場合の「見る」は二次的なものである。なぜなら、それらは知覚の対象である以上、無感覚だからである。
その上、それらは名前と形の顕現に使われる要素として言及されている。さらに、それらの場合、「見る」ことを第一義的な意味での可能性とするような「自己」という言葉はない。それゆえ、彼らによる「見る」ことは、川の堤防が(落ちる)場合のように、二次的なものであるべきなのは道理である。あるいは、彼らによる「見る」ことも一次的な意味であるかもしれないし、彼らの基盤を形成している実在の観点からは可能である。しかし私たちは、実在による「見ること」は、自己という言葉が使われているために、二次的なものではないと指摘した。
サーンキヤ:しかし、自己という言葉は、無感覚なプラダーナにも適用することができると考えられるかもしれない。なぜなら、プラダーナは自己のためにすべてを行うからである。これはちょうど、王が自分のためにすべてを行う召使に対して「Bhadrasanaは私の自己である」というような表現で自己という言葉を使うようなものである。将校が和平や戦争などに身を投じて王に仕えるように、プラダーナは自己のために解放と享楽を手配することによって、すべてに遍満する意識的存在である自己に仕えるのである。 同じ「自己」という言葉が、感覚のあるものと感覚のないものの両方を意味することもある。なぜなら、「要素そのもの」、「感覚器官そのもの」、(「至高の自己」)などという表現が一般的な用語で使われるのと同じように、「ジョーティス(火)」という同じ言葉が、生け贄や火にも使われるからである。では、「自己」という言葉の使い方から、「見ること」が二次的な意味で適用されていないとどうして推論できるのでしょうか?
ヴェーダンティン:したがって、答えは次のように与えられています。
最後に
皆々様はすでにお気づきのこととは思いますが
「自己」という言葉は、本文では“the Self”となっていて、意味としては「アートマン(真我)」であると解釈できます。
ですので、今回の六節の「/」以降にはそのような解釈にて付け加えさせていただいております。
表題6までの七節から十一節までは小刻みとなりますが、続けて頑張っていきます!
PS.ちなみに、簡易デスクを購入したので姿勢良くパソコン作業ができるようになり、かつ、こまめにボディケアをしているので快調に翻訳作業ができています。
PS2.今回の六節の解説で先生が面白い解説をなさったので、以下にご紹介します。
私たちがロボットを作った時に、その作られたロボットが自分を作ったのは人間という存在だとわかるまでの相当に優秀なAIを搭載したロボットでも、大元の人間を終生理解できないという考え方があるかもしれませんが
しかし
このロボットの中に、アートマン(真我)というプルシャと言われる純粋意識が、つまり、神様そのものが宿っているのだとすると
この純粋意識として、ひとつの粗雑な現れとしての熟考という、考える能力を用いるのならば、つまり大元の純粋な心の働き、アートマンの働き、ブラーフマンの働きとなりますので
熟考を上手に上手に使うことができることで、必ず、内に実在する神様に行き着けるだろうということです。
もしそうだとすると、「シンギュラリティ」がとても楽しみではありませんか?