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「飛んで火にいる夏の虫」を止める


はじめに

新たな善悪の業(カルマ)を蓄積しないことを願う貴方の為へ」と「幻想を知覚し苦しむ智者である貴方の為のパリサンキヤーナ念想」の補足として、ご一緒に考えてみたいと思います。

無明を世界へ投影し、知覚したその対象を問題とする問題とは

すでにお読みいただいた通り、世界に私たちが知覚する問題とは、状況のさまざまな側面の本質的な問題の代替として知覚するハメになっています。

そもそもの問題とは、「非アートマンとの相互付託」となります。

どのようなわけだが分かりませんが、「ブラーフマン=アートマン」ということを拒否して、アートマンではない個我(ジヴァートマン)を誤って作り出し、個我(非アートマン)をアートマンとし、または、アートマンを個我(非アートマン)であると誤って認識することが私たちの知覚する世界を展開(投影)しています。

すなわち、問題とは、そのような認識によって、心の中に誤って実在させていることなのですが、問題を心の外へと責任転嫁させ、もしくは、スケープゴートとしての世界をでっち上げて知覚させています。

問題をどこか別の場所に移動させて解決を試みるということは、その問題を大切に持ち続けるということになっていないでしょうか?

智者である貴方は、自分自身から真の問題を引き離して、それを解決不可能なものにしてしまってはいないでしょうか?

「飛んで火にいる夏の虫」を止める

この “note” で述べていることが本当かどうかは、現代人であり、かつ、日本人で智者である私たちは、聖典やウパニシャッドに書かれているからといって鵜呑みにする人はいないでしょう。

しかし、心静かに落ち着ける時間の中で座って、今、現在に抱えている問題の一つひとつを精査するとき、その中の、一つや二つは厳密にそして正直に客観的に観れば、とるに足らないものか、もしくは、自分の正しさの証明にしているか、あえて問題として作ったものであると言えませんか?

おそらくですが、シャンカラ師が「パリサンキヤーナ念想」にて、【新たな善悪の業が蓄積しないことを願っていること】というのは、さんざん今まで、善悪の業を蓄積してきたのだから、これ以上、蓄積しないために、滋賀で師に教える念想として提供したのかもしれません。

「飛んで火にいる夏の虫」とは、自ら進んで危険に飛びこむことのたとえとなります。「ブラーフマン=アートマン」とは、生命そのものが一致することであるならば、その生命をも拒否することになるので、自ずと危険へと飛び込むハメになり、最終的に向かうところは死ということになります。

だからこそ、もしかして、これは、「飛んで火にいる夏の虫」になっているかもという気づきをもたらしたとき、下記のシャンカラ師のように

115節
私(=アートマン)は、見を本性とし、[何ものとも]結合することなく、変化することなく、不動であり、不滅であり、恐れをもたず、極めて微細である。

『ウパデーシャ・サハスリー』2.3.115

を思い出して、「善悪の業」へと誘われるハメを外して、グッと耐えることをお試しください。

ちなみに、ここでいう「見を本性」とは、アートマンは観るもの(主体)、つまり、観照者であり、その観られるもの(客体)とは結びつかないということです。

最後に

「飛んで火にいる夏の虫」を止める、ということは、家に中に引きこもって何も行うことを止めてしまうことではないことは智者である貴方は、すでにお分かりなことと思います。

おすすめとして、実践するとき、あっという間に、夏の虫になってしまうことが大半であると思います。ですが、そこで、やっちまったと自分を責めて罪悪感を感じてしまうことこそ夏の虫です。

そのようなときは、自分を責めるよりも、詳細に、その成り立ちを観察し、どこで止めることが出来るのかを探り、何度も何度も挑戦することです。

自分の中の善悪の業となってしまう夏の虫の「傾向と対策」を必ず気長に取り組んでいれば見つけられるはずです!

一つ二つそしていくつかの「夏の虫」を手放していくと、穏やかな平和な毎日に少しずつ近づいている手応えがあるでしょう。

そこで気をつけていただきたいのが、寂しくなってまた舞い戻る、つまり、危険へのドキドキ?の誘惑があります。しかし、それでも、智者である貴方は「夏の虫」を手放し続けるか、もしくは、何回かは舞い戻っても責めることなくもう一度「夏の虫」をコツコツと手放し作業に勤しむことでしょう。

すると、鵜呑みにするのではない「信」がここの中に芽生え、その「信」が強くなればなるほどに、この作業が容易くなるのかもしれません。

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