貴方の内奥に住まう観照者こそ内制者であり真我である
まずはじめに
今回は、ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドのヤージナヴァルキァ師の思想である内制者(アンタルヤーミン)についてを引用して、相対的智慧(ヴィジュナーナ)にて認識する主体であるアートマン(真我)についてご一緒に学んでみたいと思います。
ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド
■ヤージナヴァルキァ師について
ヤージナヴァルキァ師は、インド哲学におけるウパニシャッド最大の哲人であり、「聖仙」とも称される古代インドの哲人となります。およそ紀元前750~前700年の人物となり、“It's In Every One Of Us.”にて紹介したウッダーラカ・アールニの弟子と伝えられ、梵我一如の哲理の先覚者として著名となる。白ヤジュル・ヴェーダの創始者でヨーガ哲学の元祖ともいわれ、ジャナカ王と共に後の仏陀の思想、仏教の道を用意したという説もあるとのことです。
今回引用するブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド第三篇は、ヴィデーハ国ジャナカ王がクル族とパンチャーラ族に属する多くのバラモン行者(ブラーフマナ)たちに対して「誰が一番学識があるのか?千頭の雌牛とそれぞれの角に十パーダ(約十グラム)の金貨一枚をつけたので、家まで引いてお帰りください」と告げたことから始まります。
しかし、誰もそのようにする者はいなかったのですが、この時、ヤージナヴァルキァ師が自分の弟子にこれらの雌牛を引いて行きなさいと命じ弟子は引いて行ってしまう。
これを見たバラモン行者たちは憤慨し、勧請官(神を勧請する祭官)やバラモン行者が問答という議論をして論破されてしまうシーンとなります。この議論を通して、ウパニシャッドという奥義の秘伝となっています。
■内制者について
第七章は、アルナ師の息子であるウッダーラカ師の質問から始まります。ヤージナヴァルキァ師とは師弟関係であるので、マドゥラ国においてカピ師の家系に属するパタンチャラ師の家で護摩供養祭について学んでいた時に、師の妻がガンダルヴァ鬼に取り憑かれたことを述べた。その時、ガンダルヴァ鬼が「この世と次の世とすべての生類とを内部から制御しているがごとき内制者を知っているか?」と問いかけたが、パタンチャラ師は知らないと答えた。
ガンダルヴァ鬼は「カピの息子よ、かの経線を知ると共にかの内制者を知るものは絶対者ブラーフマンを知る者であり、いくつもの世界を知る者であり、神々やヴェーダ聖典やすべての生類や真我(アートマン)を知る者である」と私たちに説明した。
ウッダーラカ師は、かの経線も内制者も知っているが、あなたはそれらも知らずに牛たちを持って帰るのか?と議論に挑むのだが…
四節から十五節まで、大地を水(アポ)・火(アグニ)・空界(アンタリクシャ)・風(ヴァーユ)・天界・太陽・方位・月や星々・虚空(アーカーシャ)・暗闇(タマ)・光輝(テージャス)・万生に言葉を変えて伝え、最後に、以上は生類に関しての説明であるが、以下は自己の身体に関して説明する、と以下の引用に続きます。
十七節から二十三節まで、嗅覚器官(鼻、咳、プラーナ)を発語器官(口)・視覚器官(眼)・聴覚器官(耳)・意思(マナ)・触覚器官(皮膚)・相対的智慧(ヴィジュナーナ)・生殖器官(レータス)に言葉を変えて伝え、二十三節の最後は、以下となります。
ここで補足として、サンスクリットの元訳として、マナについて、服部正明先生は思考力、岩本裕先生は意と訳していましたが、カタ・ウパのシャッドの十頭立ての馬車に見立てた内的心理器官(アンタカラーナ)の運動器官と感覚器官を操作する意思(マナス)の方が適切だと思います。
つまり、ここでは、嗅覚器官・発語器官・視覚器官・聴覚器官・触覚器官・生殖器官をカタ・ウパのシャッドの十頭立ての馬車に見立てた内的心理器官で喩えるならば、各器官を馬としてその馬たちを御者が操作する手綱であると。その手綱を操るのが御者である相対的智慧(ヴィジュナーナ)の智慧の如何によるわけです。
このヴィジュナーナについても、服部正明先生は認識力、岩本裕先生は認識と訳していましたが、ジュナーナが絶対的な智慧とするならば、ジュナーナの前にヴィがつくことで相対的な智慧、つまり、相対的な世界、夢の世界、幻想世界においての智慧としての方が適切だと思います。
なぜ、ウッダーラカ師がかつての弟子であるヤージナヴァルキァ師に一番学識があるのか?というジャナカ王の条件を満たすために「内制者」のことを「おまえ、そのことを知らんで一番とはいえへんで」と議論を持ちかけたと言いますと
私たちの内奥に座する内制者であり観察者(観照者)こそが真我(アートマン)であり、真我は、視覚器官や聴覚器官などを通して、自己の身体や生類そして世界という対象を観察しているのだが、しかし、真我自体は対象化されることがないことを当時のバラモン行者は理解してはいないが知識として知っていたのでしょう。
したがって、対象となる客体を観察する主体である真我とは、内観の道をたどることのみにて、自らの内面に直観されるべきものとなるので、内観の道を歩むものすべては、究極において、自己を対象化しようとする自我を突破する、もしくは、滅却しなければなりません。
そして、自己の最内奥に潜む絶対者ブラーフマンが顕れ出ていることを直観する時、絶対者ブラーフマンとの合一を体験する最高のサマディ(三昧)を可能にすると言われています。この時、この合一体験において、自分自身を観る者と観られる者とに識別する識別智(ヴィヴェーカキャーティ)の役割は完全に超克されるので、客体されることなき主体としての真我としての自己=絶対者が達成される。
これを達成するためには、まず、識別智(ヴィヴェーカキャーティ)を手段として、ヨーガの技術において、観る者と観られる者とに識別することが必須となるわけです。
不変なる住居
最後に、ヴェーダンタ哲学とは異なるアプローチとなる“A Course in Miracles”(奇跡講座)の中から下記に引用して見ます。「不変なる住居」と題した中からです。
ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドに不変なる住居に住まいする「聖者というものは」に始まる上記の引用に重なるところを見つけたので下記に引用します。
最後に
この客体化されない真我を言語で説明することができない。そこで、どうするのかについてのヤージナヴァルキァ師がどのように考えているのかについてブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドから引用してご一緒に考えてみましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?