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神様との同置を上げるか?引き下げるか?

まずはじめに

前回の「ウパーサナについて」にて、ウパニシャッドにおいて、多用される同置の反論をしたのですが、書き終えて読み返した時のスッキリしない感じが残っていました。

伝えたかったことがスッキリと伝えることができていないモヤモヤ感であることがわかり、再度、同置に関して掘り下げたいと思います。

同置を引き下げると…

たとえば、ブラーフマンをBとして、アートマンをAとすれば、B=Aであることは、たびたびと、ウパニシャッドにおいて言及されています。文字通りに、自らをAであると知ればいわゆる解脱もしくはモクシャという智慧となるわけですが、問題はAであることを知れない、認識できないことになります。

たぶん、多くの人々があれこれと訓練して自らがAであることを知ろうとしますが、そもそも、ブラーフマンについて言及されている聖典からの情報でしかないのでブラーフマンとは何かについてあれこれと模索しつつも想像(イメージ)するしかありません。

このイメージは、実在することのない幻想(悪夢)の世界においての限定されたものであるので、高が知れていますし、何を証拠としても実在することを根底からは証明することができません。

信仰修行として、神様(ブラーフマン)ならばこういう時にはどうするだろうか?と考えてから行為に及ぶことは役立つこと、つまり、善なる行為になるという点では間違いありませんが、別視している限りは限界があるように思います。

また、宗教団体の組織運営だと、教祖が神様として崇められたり、神様の使徒としてや代理として、もしくは、代弁するような【同置】が見受けられます。

想像上の人格神が実在するとして、その人格神ならばこのようにするべきだとか、こうしてはならないなどの規律(ドグマ)のようなものを、正しさとしてこの幻想世界に押しつける団体や組織もいるでしょう。

例を挙げるときりがないかもですが、歴史上の精神性が高い人物、お釈迦様やイエス様の教えを勝手に解釈し組織化することもここで言う引き下げた【同置】に含まれるように思えます。

何を言いたいかと言いますと、B=Aにすることを放棄してしまうと、Bという神様をこの幻想世界には実在するかのように引き下げて【同置】するということになっていないだろうか?という疑問です。

このような【同置】になると、必然的に“奇跡”という証拠もしくは証明が必須となります。神様が実在することを“奇跡”を通して【同置】するための呪術的なものが、たとえば、密教的なものとして用いなくてはならなくなるのは、ヴェーダ聖典にも実際に含まれてはいます。

そして、表現として、ウパニシャッドの中にも【同置】が表現として用いられているというのが現在の私の考えであり、呪術的な“奇跡”を通して【同置】する現象を見ることで、神様はいらっしゃるのだと思い始めるということはあるでしょう。

今、この文章を打っていて思いついたのですが、ヨーガ・スートラの中に超能力的なことや超常現象についての記述があったりしますが、しかし、かつての聖者の伝記の中において、超能力や超常現象について引っかかっていたのではそれ以上前には進まないという戒め的な記述も見られます。

同置を上げると…

この【同置】を上げていく技術が『ヨーガ(yoga)』になります。

だから、ウパニシャッドにて、ある既知の現象的な存在を至高存在と同置する心的過程を意味するような記述が多く見られるとしかいいようがありません。大宇宙と小宇宙の対応や神格として表象される自然界の諸要素と人間の諸機能の個体に関しての対応関係も、初めてウパニシャッドを読んだ時にはまったく意味をなさなかったのですが…

思想として、諸機能の集まりである人間が諸神格によって構成される大宇宙に対する小宇宙であると考えられての対応関係であったようです。

実際に、ヨーガの造詣が深い教師から指導を仰ぐことがオススメですが、人間五蔵説の考えから人間を5つの鞘(さや)を持つ存在として、肉体と呼ばれている食物鞘、生気(プラーナ)から作られている生気の鞘(この生気(プラーナ)は私たちの身体内に張り巡らされている目に見えないナーディーと呼ばれる導管の中を流れていると考えられています)、私たちの種々の感覚や想念に関係する意志鞘、完璧な智慧に基いた知性の働く理智鞘、歓喜の居所
である歓喜鞘のそれぞれを、アーサナと呼ばれる体操やプラーナヤーマと呼ばれる呼吸法そして瞑想にて、観照者としてそれらの対象物を観察していきます。

【同置】を上げるとは、この観照者を、「動物的な人間」から「人間に近い人間」へと、「人間に近い人間」から「普通の人間」へと、「普通の人間」から「人間を超えるような超人」へと、「人間を超えるような超人」から「神様のような神人」へと、以下のように観察者としての神様と【同置】するのです。

神様以外の観察者はなし。

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』第二篇七章第二十三節

【同置】を上げていく過程において、“奇跡”と呼べるような証拠もしくは証明を積み重ねていくことになると思いますが、それらのことも観照者として観られるものをただ観て見過ごしていく、ということなのだと思います。

最後に

『ヨーガ(yoga)』という言葉の意味からして、「結びつく」ということなので、今現在の自分が何と結びついているのか?を、肉体の目という小さな小窓だけではなく心の眼という少し高く大きな窓を通して俯瞰して良い悪いの判断を脇に置いて観察し、結びついたものとの執着した意味づけを瞑想にて解き明かして手放(解脱)し、少し上の【同置】へと上がっていくこと、このことをお伝えして今回のnoteを終えたいと思います。

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