あいまいなもの①―アジャン・チャーのマインドフルネスにまつわる講話
これからご紹介するのは、20世紀にタイのみならず、西洋でも大変尊敬され、瞑想の名師であったアジャン・チャーの名で親しまれてきた(アジャンはタイ語で先生の意)、プラ・ボディニャナテーラ師の講話です。アメリカ人の僧侶であるタニサロ比丘が翻訳し、無料冊子に収められているものです。以前ワット・ナナチャートでいただいたものなのですが、仏教の知識がなくても大変わかりやすく面白い内容でしたので、抜粋して日本語翻訳いたします。アジャン・チャーのシンプルで深い洞察、アジャン・タニサロの繊細な言葉えらび、ふたりの素敵なエッセンスが伺える短くも奥行のある一冊です。
(著作権)Not for Sure, Venerable Ajarn Chah, translated from the Thai by Thanissaro Bhikkhu for free distribution, copyright © 2007 The Sangha, Wat Pha Nanachat, Warin Chamraab, Ubon Ratchathani 34310, Thailand
はい、ではみなさん、しっかり聞いて。
あなたの意識を誰かや何か、対象物にピントを合わせることをせずに、今あなたは山の上、もしくは森の中のどこかで、ひとりっきりで座っているんだという感覚でいてごらん。今ここで座っていて、なにがある?ただカラダとマインド、それだけ。あるのはこのふたつだけ。この座っているかたまりすべてが『カラダ』。今この瞬間に感覚を感じたり、考えたりということを認知しているのが『マインド』。このふたつが『ナマ・ルパ』と呼ばれるもの。
『ナマ』とはルパのないもの、つまり非物質なもの。すべての思考や感覚、つまり感情、概念、信念体系、意識体系はナマであり、カタチはない。目が見ることによって、認識されたカタチが『ルパ』とされる。カタチを認知する識のことを『ナマ』という。それらをセットで『ナマ・ルパ』と呼ぶが、単純に言えばカラダとマインドということ。
感情(ヴェーダナ)、概念(サンニャ)、信念体系(サムスカーラ)、意識体系(ヴィンニャーナ)は五蘊のうちの4つです。これに『ルパ』=カタチを足して五蘊(パンチャ・カンダ)とされます。
今ここで座っているのはただのカラダとマインドだということを理解してごらん。すべてがこのふたつに由来しているということを。もし心の平穏を願うのであれば、あなたが知らなければいけないことは、このふたつだけ。だけど今この瞬間も、マインドは手に負えないもの。汚れて、濁っている。だけどそれは本来の状態ではない。だから小まめにきれいにして、平穏に慣れさせていかないといけない。
座って一点集中することが瞑想だと思っている人がたくさんいるけれど、つまるところ立っているときも、座っているときも、歩いているときも、横になっているときにも意識に注意を向けていることが瞑想。だから瞑想はいつどんな時でも練習することができる。サティ(集中)の深い意味は『確固たる認識』。だから瞑想するために自分を追い込むようなことをしなくていい。『瞑想で集中することによって心を平穏にするためには、どんなことも起こりえない状態になるように座らなければならないんだ!完全なる静寂を手に入れたい!』と考える人も往々にいるようだけれども、それだと死んでる状態と同じだよ。全然現実味がない。何のために集中するかというと、起こっている状態に対する智慧を喚起させるため、認識力を喚起させるため。
サティ(集中)とは『確固たる認識』と言ったように、ひとつの対象に意識を集めること。じゃあ、そう言ったときにひとつの対象とはどういうもののことを言うのだろう?なにをもってきちんと対象だと言えるのだろう。たいていの人は集中の行で、完全なる静寂を望む。たくさんの人がわたしのところに来て、『一点集中して座ろうと思っているのに、マインドがじっとしてくれないんです!はじめのうち、マインドはあっちに行ったかと思えば、その後またどこかにに行ってしまって…どうやってマインドを動かないようにしたらいいかわからないんです。』と言う。
だけど、そもそもマインドというものは元来止まるようにはできていないのだよ。あなたはマインドが動き回るのを止めようとしているのかもしれないけれど、動き回る後についていって一緒に動き回っている。『マインドが動くからまた引っ張り戻して、それでも動き回るのでまた引っ張り戻すことの繰り返し』だと不満を言う人もいるけれど、それだとただの引っ張り合いっこだ。
自分のマインドが動き回っているんだと思っているかもしれないけれど、実際何が動き回っているのかというと、それは印象なんだよ。たとえばこの講堂を見てごらん。『なんて広いんだろう!』とあなたは思うかもしれないけれど、実際この講堂が広いわけではない。わたしたちの感じ方が広いだけであって、講堂自体は狭い広いという定義を持っておらず、ただこのサイズなだけ。だけどわたしたちには、それに対する印象があとから必ずついてくる。
サティ(集中)によって心の平穏を手に入れたいのであれば、平穏とは何かをまず考えなければならない。もしそれがわからないのであれば、心の平穏をみつけることはまずできない。たとえばあなたが大切にしている高級な新しい万年筆をここに持ってきたとしよう。来るときに胸ポケットに入れていたんだけれども、どこかで無意識に別のポケットにしまった。だから今も胸ポケットにペンは入っていると思っていたんだけれども、氣がついたらない!あなたはにわかにパニックになる。なぜパニックになるかというと、本当だと思っていたことが本当ではなかったから。あなたは憤慨し、立ったり、歩いたり、行ったり来たりしても、ペンがどこにいったのかが心配で頭から離れない。それが勘違いであってもあなたは苦しむ。『どうしよう!たった数日で失くしてしまった!』
だけどよくよく思い出してみると『あ、トイレに行ったときにズボンのポケットに入れなおしたんだった!』ということに氣がつく。とたんにペンを見ずとも心は軽くなる。ほら、確信したとたん、あなたは幸せな氣持ちになって、ペンの心配は消えた。そして歩きながらズボンのポケットに手を伸ばすと…あった。あなたのマインドはうそつきだ。ペンは失くなっていなかったのに、マインドはあたかも失くなったかのように振る舞い、おかげで事実を知らないあなたは苦しい目に遭った。今ペンを目のあたりにして、あなたの疑いは晴れて、心配事は去った。
何が言いたいかというと、穏やかさというのは、問題の原因を目のあたりにしたときに訪れるということ。これがサムダヤ、つまり問題の原因のこと。そしてペンがズボンのポケットに入っていることを思い出すやいなや、苦しい氣持ちはすぐに消えた。これがニローダ、苦しみの消滅。
ドゥッカ(苦)、サムダヤ(集)、ニローダ(滅)、マッガ(道)の四つをチャトゥ・アリヤサッチャ(四聖諦)といいます。ブッダが最初に講話をした内容であり、仏教哲学の軸となっている部分です。日本語(漢訳)でサムダヤは『集』と訳されていますが、『原因』という意味があります。
だから心の平穏をみつけるためには、深い内観が必要となる。一般的に心の平穏とは何かと聞かれたならば、単にマインドを穏やかにすることだと思い、汚れを減らすことだとは思わないだろう。あなたは自分の汚れの上に座って瞑想しているんだと思うといい。草の上にある岩のようなものだ。岩が乗ってるものだから、草は育つことができない。でもその岩をどけて3、4日するとまた草は生えてくる。草が絶えることはない。ただ岩の下で押しつぶされていただけだ。集中のために座るのもこれと同じ。マインドは穏やかになったかもしれないけれど、汚れは減っていない。どういうことかと言うと、それが瞑想になっているのかどうか曖昧だということ。本当の心の平穏を見つけたいんだったら、そこで深く内観しなければならない。集中することで、ある種の平穏を得ることはできる。草の上に岩があるのと同じように、そこに長く居すわることもできる。だけど岩をどけると草はまた生えてくる。ということはこれは一時的な心の平穏だということだ。
一方、内観による平穏は、岩をどかすようなことはせず、ただあった場所に置いておくだけ。すると草はずっと生えることができない。これが本当の心の平穏であり、汚れを減らすもの。内観とはそういうものだ。
②へつづく↓↓↓↓↓
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