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アジア仏教の現在
インド留学時代から、出家して僧侶になり、国際布教師としてマレーシア・ペナン島に赴任し、コロナ・パンデミックを経て再び祖国(日本)に帰還したのが 2019 年でした。ぐるっとアジアを経巡って日本に戻り、これまでの変遷を整理するために「アジア仏教の現在」というプロジェクトを、自分の中に立ち上げました。
実際のところは、パソコン(外部記憶装置)に溜まっている膨大な写真や文献データーなどを、何らかの指針に沿って整理整頓したいという思いがあります。
整理しつつ、これまで経て来た道程を振り返り、その中で気付いた事や、得た知見、通説に対する意見などを、論文形式でまとめていきたいと思います。
アジア仏教の現在
アジア仏教の現在を、ペナン一念寺の信徒さんの信仰のありようから書き始めました。
「アジア」「仏教」「現在」の意味を私は以下のように定義しています。
「アジア」
西洋と東洋、一神教と多尊格教( ≒ 多神教)という区分としての「東洋 アジア」です。
アジア世界では、広く、多くの尊崇を集める対象があり、仏であったり、如来、菩薩、阿羅漢、天子、天王、明王、龍王、王、明妃、神、神妃、など、さまざまな尊号を冠して表現されます。単に「神々」では表現が足りないので、私は「西洋 一神教世界」に対して、「アジア 多尊格世界」と呼んでいます。つまり、私は人類の(信仰に関わる)世界観をまずこの2つに区分します。
近年、日蓮宗でも英語による信行道場が開催されるなど、日本人ではない方々が出家され日蓮宗教師と成られておられます。西洋世界に所属される方々は、一神教的な世界観の中で「お題目」「日蓮聖人」「日蓮(宗)仏教」を広宣されていかれるでしょう。そのための社会背景、歴史の分析をされ、その世界観の中で「お題目・日蓮仏教」を広めていかれることと思います。そのために必要な基礎的な知識は「アジア」とは異なったものになるでしょう。お上人方々のご活躍を期待いたします。
一方、東洋・アジア世界では、様々な尊格が共存している世界観の中で「お題目」「日蓮仏教」を広宣流布をしていくことになります。こちらでは、各地域で異なる「多尊格世界」の構造(配列)、その成り立ちの社会的、歴史的背景を理解することが必要です。
「アジア仏教」とは、「西洋一神教世界」と対比された、アジアの「多尊格世界」における「仏教」の有り様、ということになります。
「仏教」
もともと私は、インドのヒンドゥーイムズの石造建築の調査研究を主としてインドに留学しました。そして、偶然出会った「お題目」から「法華經」「日蓮聖人」に徐々に接近していったという体験を持っています。
実は、最初は仏教には興味がありませんでした。と言うのは「建造物の研究」という観点からは、仏教は遺跡としてしか残っておりませんので、屋根やそれを支える「架構構造」を観察できません。考古学の対象になっても建築史学的な魅力には乏しかったのです。
「『お題目』を唱えること」は、しかし、全く別の意味で魅力的でした。その後お題目の元となっている「法華経」のサンスクリット語テキスト(とそのヒンディー語訳)に出会い、私の信仰心は深まっていきました。
一方、「ヒンドゥー寺院の建造物の研究」からヒンドゥーイムズを理解するにつれて、意外にも、日本の仏教・神道には、多くのヒンドゥーイズムの神々が招来されていて、ヒンドゥーイムズよりもさらに複雑な多尊格構造になっていることを知りました。
眼を広げると中華世界にも非常に豊かな霊魂思想、多尊格構造があり、スリランカ、チベット、ネパールも、独自の、独特の多尊格世界があり、それぞれ豊かに共存繁栄しています。
その中で「仏教」は仏教自身の尊格・信仰だけでなく、様々な地域の土着の尊格・信仰を、他の地域へ伝播させていく強力な「媒体・メディア」になっていることを理解するようになりました。
ですので私は、仏教自身だけでなく、これら、ヒンドゥーイムズや中華世界の民間宗教、儒教、道教、日本の神道など、土着の尊格・信仰、あるいは、伝播先で変容・融合していった尊格・信仰などの一切を含めた宗教世界、宗教観を指す言葉として、「仏教」という言葉を使います。
実際、「日本の仏教」を語るにはここまで仏教の意味を拡大する必要があると思っています。
「現在」
上記に書きましたように、私は建造物の研究から出発しているので、教典、文献などの「書かれたもの」の世界が、どのように現実化しているのか、あるいは、現実(五感で感じられる現象)は、どのように(教典、文献では)説明されているのか、という点に関心があります。
あらゆる存在形態において、特に、現実の現象を観察して、そこに存在する事柄(もの、こと)を「実在」と呼び、「実在」に加えて、実際には「実在」はしないが言葉として存在する事柄、言葉としても存在しないが、(場の雰囲気などで)感じる様な気がする事柄をもふくめて、「存在」と呼ぶことにします。
特に中華世界では、「実在」はしないが「存在」はする事柄・対象・言葉が非常に多いので、事柄・対象を言語的に区分し冷静に弁別していくことが必須となります。
このような前提において、今現在、私が体験している事柄、私にも体験できる事柄が、私にとっての思索対象となり、その対象と共に有る時間のことを「現在」と呼んでいます。
長らくインド世界にどっぷりと浸っていましたが、ペナンに赴任し東南アジアの華人たちと接触して、日本人である私の中で、様々な文化的差異がキラキラと輝いております。「アジア仏教の現在」としてまとめる事を試みますので、みなさまのご感想を賜りたいと存じます。
合掌。
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