すべての道は仏教に通ず【#001 開設のための解説】
はじめまして
人生ってなかなか苦しいことが多いですよね。お釈迦さんが「生まれること自体、苦しみである」と説いたのもうなずけます。「人生で最善は、生まれてこないこと」であり「次善は、早く死ぬこと」だと、シレノスが語るギリシャ的な考え方にも惹かれるものがあります。
この苦しみというものから脱する方法を、みなさんきっとお探しかと思います。仏教にはもちろんその答えがあります。でもその答えって言葉ではうまく表せないんだと思います。だからみんな困ってるんです。
かっこういいことを述べましたが、もちろん私がその解決法を知っているわけではありません。でも経典や論書にどんなことが書いてあるのか理解する術を持っています。
こんなご時世ですから仏教を学びたいという人は多いでしょう。そんな人のために、どこかに入信する必要もなく、我々の身近な話を織り交ぜながら、なるべく簡単にお話ししたいと思います。
みなさんの身の回りで、仏教について「やさしくってタメになるお話が聞ける場所」ってありますか?きっとないと思うのです。
きちんと仏教を学ぼうとなると、どういうわけか敷居が高く感じられるし、そもそもなんかきちんと学ぶのって億劫ですよね。だからもっと平易な形で、身近な用例をもって仏教に親しめるお話をしたいなって思ったのが、この Blog を開設した動機です。(note ってBlogなんでしょうかね?(笑))
一応これでも大学で仏教学の授業を受け持っておりますので、要所では「きちんとしたお話」を試みたいと思っております。でもどちらかというと、われわれの日々の生活の中で起こるよしなしごとをそこはかとなく書きつくってみることが中心です。
その日常の中に潜んでいる仏教教義に光を当ててみたいです。今まで当てられなかった角度から光を当てるやり方こそが、このブログの最大の特徴かもしれません。
宗教は人間にとって自由か?不自由か?
仏教を語る前に、一言申し上げたいことがあります。それは「宗教は人間にとって自由なものであってほしい」ということです。いろいろな意味においてです。「行き過ぎ」ることなく、常に多くの目で見守ることのできる、風通しのよい環境の上に、宗教はあってほしいです。なんというか、、、宗教はもっともっとスマートであってほしい。ただただそう思います。
宗教って我々にとっては少々不自由な側面がありますよね。我々は宗教というものに対して一定の距離(ソーシャルディスタンス)を取るべきなのかもしれませんね。(笑)
人間誰しも、うまくいかない時や体調がすぐれない時があります。そんな時はなるべく、自己流でよいので呼吸を整えて、適切な距離感でもって神さまや仏さまにお願いするのがよいと思うのです。
仏教の教義ってむずかしい?
最後に仏教のお話をします。仏教の教義(ダルマ)は、もともと大変シンプルに作られています。これは現代にも当てはまることですが、教義などというものは簡単であればあるほど、一般の人たちに喜ばれ、広がっていきます。しかしその教義というものは、長い時間をかけて、歴史的にまた地理的に広がっていくものですから、時代時代によってその姿が変わります。多くの場合は、難解にそして複雑になっていくような印象があります。
別に複雑になること自体、何も悪いことではありません。それも「思想的な発展」と捉えれば重要なことだからです。時間をかけて、ゆっくりゆっくりと、その土地の思想や文化と溶け合った仏教は、さらに奥深く、意味のあるものとなります。日本に伝えられた仏教もオリジナルと比較するとその姿を変えておりますが、それはそれでよい味を出しているのではないかと感じます。
でも、やっぱり私はブッダの時代の教義が好きです。ブッダの説く教義は、理解しやすいだけでなく、とても誠実であるような気がするからです。
私が気付いていないだけで、初期の教義にはもっと深い意味が込められているのかもしれませんが、後の大乗の論書なんかと比べても格段に分かりやすいです。だから取っつきやすくて好きなのです。教義がいくら深くても、多くの人が理解し実践できなければ意味ないですからね。
私の専門はインドの大乗仏教ですが、何か話を求められたりする時には、ブッダ周辺のお話をするようにしています。好きだからということもありますが、やはり原点の教えを疎かにしてはいけないと思うからです。
タイ仏教であれ、日本仏教であれ、チベット仏教であれ、どの教義に触れたとしても、そこにはブッダの説く「シンプルな教え」が息づいています。我々はその事実を常に意識するべきでしょう。私はそう心掛けています。
八つの正しい道
ではシンプルな教えとは、具体的にはどんなものでしょうか?私がまず思いつくのは、「八正道」という教義です。ブッダの説く教義は分かりやすいと言いましたが、それでもインドの哲学体系の中から誕生した教義ですから、難しい部分はもちろんあります。
例えば、さとりの内容を理解するのはやはり難しいです。でもそこに至る方法は案外簡単に説かれています。
この「八正道」も大変シンプルな修行方法としてブッダの時代から親しまれてきました。「正見(しょうけん)」・「正思(しょうし)」・「正語(しょうご)」などは、どれも文字を見ただけで容易に何をすればよいか想像がつくものばかりです。
それぞれ「正しく見ること」、「正しく考えること」、「噓をつかないこと(正しい言葉づかいをすること)」などを意味します。もちろんもっと深く説明する方法はありますが、そんなこと聞かなくても自分のやるべきことが簡単に理解できるでしょう。だから私はブッダの頃のシンプルな教義が好きなのです。
また、「お焼香は3回が正しいです」なんて話が、葬儀の席のお坊さんや葬儀社の口から聞かれることがあります。はっきり言ってどうでもいいと思います。別に10回ふりかけても問題ありません(もちろんおすすめはしませんが…)。その土地の伝統というかやり方があるでしょうからそれに従っておくのが無難ですが、、、何が正しくて何が正しくないのかというよりは、教義において何が重要であるかを見極める必要があるのだと思います。(まあ3回という数字は、確かに仏教では「重要な」意味を持ちますけど。今後お話しさせていただきますね)
そんなことよりももっと魅力的な話が仏教にはたくさん詰まっています。それを分かりやすい形で聞いてみたいと、みなさんも思いませんか。もちろん自身の知的欲求を満たしてくれるような、ある一定のレベルを保ったものをです。
そんな発信を目指します。口で言うほど簡単ではないでしょうが、もし提供できるとしたら、きっと聞いてくださる方はたくさんいらっしゃるのではと確信しています。
はじめての投稿で緊張しています。最後までお読みくださりありがとうございました。まずはごあいさつまで。