「高校生シリコンバレー派遣留学プログラム~ワールド寺子屋~」 Day1:渡航~就寝
2024年3月16日~25日は10年後か、20年後か、はたまた50年後かに私の人生の転換点として認識されることだろう。私は早稲田大学とNPO法人EdFutureが企画、運営する「高校生シリコンバレー派遣留学プログラム~ワールド寺子屋~」に参加した。これは私が初めて異国の地を踏み、風を感じ、変容していく過程を記した随想録である。自己の観察は殊に重要であるが、概して他者からの視点とは大きく異なるものである。故に、いずれ訪れる人生の節目で、岩に断たれる水となることを厭わない、そんな心構えの一助になればわざわざ振り返った意味もあるというものだ。プログラムの主旨については以下のサイトを参考にされたい。
日本時間にして3/16日午後6時15分頃、この世に生を受けて17年、初めて我が国日本に背を向けた。約45分遅れの離陸際、私は何ともなしに背もたれから身を離し、通路と座席を挟んだ先の、小さな窓のその先を見つめていた。その日も平常と同じ時間に起き、焦りなく、されど秘せられし高揚を忘却せんとする如くで、最後の昼餐は期せずしてかつ丼だった。なんでこんな回りくどい言い方してるんだろ、、、。
お世話になった方々が見送りに来て、一枚のメッセージカードをくれた。デジタル上ではなくて、直接その人の文字に触れる。なんだかしみじみとした瞬間だった。諸々の手続きを終えJALに搭乗。予定時刻より45分後に離陸。
この時普段17:30に夕御飯を食べる私はすでに空腹だったのだが、その後ジェット気流などの影響もあり、機内食が出されたのは日本時間にして20:30頃。本来2種選べるのだが最後尾に近いの私のところに来る頃には一つだけだった。この日のメニューはメインがバター香るチキンのトロトロ卵ライス。サイドがエスニック風春雨サラダ、茄子の揚げ浸し。人参と蓮根の子和え。それに味噌汁、ジュース(私はJARオリジナルドリンクでブドウと桃をミックスした感じ?)、ハーゲンダッツ(JAL限定の木苺のミルクプディング味!)であった。個人的には味噌汁が好みだった。初機内食であったが存外に豪華で満足。
その後は眠りにつこうと必死だった。スリッパ、耳栓、アイマスク、ネックピローをしてフード付きの洋服を前から被って寝た。わかってはいたが2時間程しか睡眠は取れなかった(これ以上は睡眠薬しかすることがない)。おすすめなのは瞑想を身に着けることだ。眠るほどではないにせよ、ある程度効果は得られる。ただ目をつぶるだけだと思考してしまうので、呼吸に集中して意識を落としていくマインドフルネスが慣れれば一番簡単だ。
日付変更線を超えて2度目の2024年3月16日。朝ご飯は日本時間で10時頃。この頃私は日本、飛行機、サンフランシスコの3つの時間を把握していた。メニューはタコライスコーンごはん、トッピング用サラダ、シークワーサーゼリーであった。この時間に朝御飯を出すのは時差ぼけ解消のための戦略だったりするのだろうか。やはり温かい緑茶は欠かせない。
そうこうしているうちに窓から新世界が目に入った。9時間のフライトは長いようでもあり、短いようでもあった。新世界はそこがアメリカだと知っていなかったのならば、あるいは遅れた国であると認識していたかもしれない。なぜなら東京のように都市のほとんどが建物で埋め尽くされておらず、緑が約8割を占めていたからだ。そしてこの出来事は私は自然が好きなのにも関わらず、私の無意識にある発展した場所のイメージが「人工物だけの都市」であるという矛盾を指摘した。機体は下降・旋回後、再び上昇してついに降り立った。
飛行機を降りても空を拝むことはできない。入国審査が長蛇の列を作って待っている。結局のところ2時間ほどを費やした。羽田空港で2回も呼び止められた私は不安だったのだが、同じ服を着た仲間が先に通過していたからか、簡単な確認のみだった。
ついにサンフランシスコ空港をでるとああ異国の風とはこういうことなのかと、風の一吹きにも、空の青さにも新たな世界を感じた。密集していないからか開放感のある景色で、景観が人間性をも形作っているのではないかと思う。その後はウーバーでバディとの待ち合わせ場所まで移動。日本でも導入が検討されているライドシェアサービスだ。日本のタクシーの運転手などと違ってフラットに乗客に話しかける姿が印象的。
オンラインで交流してきたバディと初めての対面での出会いである。頭に花冠をのせて現れた彼は想像よりも大きく、陽気だった。バディは両親がウクライナ系と日系のアメリカ人。バディとホストマザーは日本語が少し話せ、ホストファザーはドイツ語が話せる。つまり、学校でドイツ語を学ぶ私は3か国語で会話することができた。既に15:30頃であったが昼食を食べていなかったので私の分のバーガーとポテトのセットをテイクアウトしてホストの家へ。インド系バーガーで少々辛かった。何を隠そう私は甘党である。これがアメリカで最初に口にしたものとなった。ちなみに味はそこまで覚えていない。
到着後はバディとスタンフォード大学他近辺へサイクリングした。ヘルメットの着用義務がある。いわゆるママチャリはあまり見かけず、スポーツバイクが多い。本体には鍵がなく、外付けの鉄パイプのロックで固定することに驚いた。スタンフォード大学の敷地は広大で多くの市民が利用している。この敷地の中にどれだけの学びの種が詰まっているのだろうか。後日訪問するため詳しくはそちらで。他にも横断歩道の少なさとあったとしてもわかりにくいことに驚いた。残り秒数をカウントするものが主で横断歩道特有の縞々はない。
その後はヘンリーガン高校での演劇の公演を見に向かった。バディ―は演劇クラブのリーダーで開始前にバックヤードにもお邪魔して、現地の高校生とも交流した。感じたのは留学生にもそこまでの興味を示さないということ。日本では話しかけはせずとも視線を向けたり話題の種にしたりすることはよくある。しかし一人の人間としてはあれど、留学生としての態度というものはあまりなかった。彼らは同い年前後であったが、男女ともに大きい。特に髪形や服装にこだわりはなさそうであるがおさげがある生徒は少なかった。バックヤードも学校の管轄だが、工房や落書き、家具などもあり、自由に使っている様子が見て取れた。印象的であったのは本番直前での出来事である。リーダーその他数名が手をたたいて叫び始めるとすぐに他の生徒も集まって同じように手をたたいて騒ぎ始め、あっという間に円形に集合した。そしてやめがかかると静止し、先生とリーダーの話も手短に終わった。その後のことは一日目でもっと脳裏に焼き付く光景である。やっていたのはリーダーがいうことを繰り返す早口言葉の様なもので、どんどん長くなっていくもの、みんながある言葉のリズムで手を叩きながら踊る中でランダムで数人真ん中に出てきてお題を出して、みんながそれをやって戻るというのを繰り返すものである。最後は全員が自分の腕を前でクロスさせて両隣と手をつなぎ、しゃがんだ状態から「元気出せ」の様な言葉を大声で何度も叫びながら立ち上がっていくというものをした。何を言っているのかよくわからなかったが、その場の雰囲気に合わせて体を動かした。これがアメリカなのだと気づかされた瞬間だった。一方で雰囲気でしか理解できないことに無力感を感じたことも記しておく。これはなにかと聞いたら「ジアーズ」だといわれたが検索してもヒットしない。この記事を読んだ方に協力を求めたい。
劇自体はシェイクスピアの「Midsummer Night's Dream」をもとにしたものでセリフも理解できないところがあり、難解だった。しかし劇の持つ重要性はその視覚性である。私は日本の学生の演劇も見たことがあるが、より開放的で意欲的であった。これは映画館などにも言えることであるが、観客が大きな歓声を上げているのが印象的であった。
劇終了時間は午後9時であり、その後、家でホストマザーが買ってきた中華料理(?)をいただいた。味は普通。その後すぐにシャワーをし(浴槽はあるが使わないそう)、ホストは11時には寝室へと吸い込まれていった。夫婦の寝室は同じだが、子供の寝室は離れている。アメリカ人と結婚した女性が離婚する際の親権争いで、「子供と一緒寝るような女には親権を渡せない」と罵られた話を思い出した。私は1時まで作業をし、床についた。
これから1日ごとの記録を紡いでいく。どうか温かい目で。See you later!
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