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【短編小説】最後のコミット、君への未送信メッセージ

彼が最後の荷物を梱包したとき、夏の日差しが鋭く照りつけていた。MacBookの箱を閉じる音が、部屋に響く。その音は、これまでの日々に終止符を打つようだった。

退職を決意したのは、春の終わり頃だった。桜の花びらが舞う中、彼は自分の将来について考えていた。「このまま続けるべきか、それとも新しい挑戦をすべきか」という思いが、彼の心の中でぶつかり合っていた。

画面に映る顔々。Google Meetの窓越しに見える東京のオフィス。「お世話になりました」という言葉が、何度も繰り返される。画面の向こうの同僚たちの表情には、驚きと寂しさ、そして彼への期待が混ざっていた。

スマートフォンの画面をスクロールする。LINEの会話履歴。「東京での送別会、楽しみにしてるね」というメッセージが並ぶ。その約束は、彼の心に期待と不安を同時にもたらした。久しぶりの東京。久しぶりの対面。そして、彼女との再会。

東京、夜の歌舞伎町。ネオンが瞬く中、送別会の後、彼女が雑踏に消えていく。言えなかった言葉が、喉元でつかえる。彼女との出会いは、会社の新年会だった。遠隔で参加していた彼に、彼女が優しく話しかけてくれたのが始まりだった。そして今、現実の東京で、その優しさを再び感じていた。

新幹線の車窓。揺れる景色を眺めながら、新しい仕事の企画書をMacBookで開く。隣の席で彼女によく似た人が寝息を立てている。ふと顔を上げる。彼女ではない。けれど、彼女の存在が、常に彼の周りにあるような気がしてならない。

夜。地方の自宅に戻り、部屋の電気を消す。暗闇の中でiPhoneの画面だけが浮かび上がる。彼女のSNSを眺める。東京での写真が投稿されている。送別会の夜の記憶が鮮明によみがえる。

朝。目覚ましのアラームがなる。習慣だった会社のSlackを開きそうになる。指が宙をさまよう。新しい朝。新しい習慣を作る時間が始まったのだ。東京での別れから、新たな一歩を踏み出す。

コンビニのアイスコーヒー。缶を開ける音。東京での送別会で交わした会話が断片的に蘇る。「君のコードは綺麗だね」「次は東京に住むの?」そんな言葉が、耳元でこだまする。

プログラムのコードを書く。エラーが出る。彼女に見せたかった、と思う。送別会の夜、彼女は彼のパソコンを覗き込み、「すごいね、こんな世界があるんだ」と目を輝かせていた。その眼差しが、今でも彼を励ましている。

夕暮れ時の公園。ベンチに座る。iPhoneで彼女に連絡しようとして、やめる。「東京、寂しくない?」という言葉が、なぜこんなにも打ちにくいのだろう。

駅のホーム。電車を待つ。肩にかけたバッグの中のMacBookが、重みを感じさせる。それは単なる機械ではなく、これからの人生を切り開く道具だ。そして、彼女との東京での思い出が詰まった宝箱でもある。

部屋の窓から見える夜景。街灯りが点滅する。東京で彼女と見た景色と重なる。あの夜、二人で見上げた東京タワー。「どこにいても、同じ空の下にいるんだね」と彼女が言った言葉を思い出す。

コードを書き続ける。夜が明ける。新しい仕事の始まり。彼女のことを考える。プログラムの行間に、彼女への思いを隠すように打ち込んでいく。東京と地方。距離は離れていても、コードが二人をつないでいる気がした。

そして、また夏の日差しが照りつける。新しい季節。新しい挑戦。そして、変わらない思い。東京での別れから始まる、新たな物語。

彼は深呼吸をして、MacBookを開く。画面に映る自分の姿が、少し逞しくなったように見える。新しい自分を見つけながら、東京での思い出とともに歩んでいく。それが、彼の選んだ道だった。

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