『ゴッドファーザーpart3』の不人気を演技の面から分析してみた。
巷では「映画『ゴッドファーザー』のpart1とpart2は傑作だけどpart3は駄作」「『ゴッドファーザー』はpart1とpart2を観れば充分」という評価が一般的だそうで。
なぜそんなにpart3の評価が低いのかをネットで調べてみると「退屈だから」というボンヤリした理由がほとんどでした。
これ、ちょっと面白いなと思ってw。
プロットとしては一貫してるんですよ。
ニューヨーク郊外のご近所のゴッドファーザーだったドン・ヴィトー・コルレオーネとその息子マイケルが、家族の幸せのために勢力をご近所→ニューヨーク全部→アメリカ全土→ヨーロッパまで拡大してゆくのだけれど、そのたびに逆に家族は不和になってゆき、血が流れ、みな孤独に死んでゆく…。
この大河ドラマ全3作を脚本はフランシス・フォード・コッポラとマリオ・プーゾ、撮影監督ゴードン・ウィリス、ニーノ・ロータが音楽・・・とスタッフィングも全3作をほぼ一緒で製作しているのに・・・part3だけが実際「退屈」に感じるのはなぜなのでしょうか?
・・・演技が違うんですよ。
俳優たちが使ってる演技法が違ってるんです。でその結果、part3は part1/part2に比べて、圧倒的に人物の感情描写のディテールが足りてないんです。
part1、part2の出演俳優はマーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ・・・はい、もうおわかりですね。1970年代に流行っていた「メソード演技」で演じられてます。なのでシンプルなシーンでも登場人物たちの感情の嵐が荒れ狂っていて、見ていてハラハラします。
例えばpart1でのアル・パチーノが演じる優等生のマイケルが初めて殺人を行うシーン。「会食の最中にマイケルがトイレに立って水槽に隠しておいた拳銃を持って席に戻り、会食相手2人を撃ち殺す。」とてもシンプルなシーンです。でもこのシーンが見ていてすごくハラハラするのは、マイケルが始終激しく葛藤しているからです。「人殺しになるか?それとも負け犬になるか?」この激しい葛藤がシーンに濃厚なディテールを充満させます。
このテの内面の激しい葛藤の可視化こそが「優れたメソード俳優」のもっとも得意とするところで、part1のマーロン・ブランドの演技も、part2のロバート・デ・ニーロの演技も、一貫してクールな外見でありながら、じつは内面では感情が荒れ狂っています。
この演技法こそが『ゴッドファーザー』という映画の「クールな印象でありながら、じっさいには情熱的で、バイオレンスが渦巻いている」という魅力の核になっています。
それに対して『ゴッドファーザーpart3』が製作されたのは前作より16年を経た1990年。メソード俳優たちはみな老いていて、新キャラの若い俳優たちは最新流行の「90年代風キャラクター演技」を使ってスタイリッシュに演じています。
いや、若い俳優が最新の演技法で演じることはまったく健全なことです。問題だったのは・・・
脚本がメソード俳優用に書かれていたことです。
『ゴッドファーザーpart3』で3代目ゴッドファーザーを襲名するヴィンセントを演じる俳優アンディ・ガルシアは、映画『ブラック・レイン』でのセクシーな二枚目刑事役など当時人気のイケメン俳優で、演技法としては「メソード演技」ではなく「90年代風キャラクター演技」でした。
この「90年代風キャラクター演技」は80年代に『トップガン』『ターミネーター』『ロッキーⅣ』などで大人気だった「キャラクター演技」を、さらにスタイリッシュ方面に進化させたもので、当時『レザボア・ドッグス(1992)』『トゥルー・ロマンス(1993)』『パルプ・フィクション(1994)』など一連のタランティーノ作品や『ニキータ(1990)』『レオン(1994)』などベッソン作品などで一世を風靡したスタイリッシュな演技法です。
この「90年代風キャラクター演技」の感じを超わかりやすく暴力的に説明すると・・・
90年代の日本のトレンディドラマの演技ですよ(笑)。脚本上の気の利いたセリフや行動をフックに感情を切り替えてゆく、見た目重視でオシャレに演じる演技法。あれと構造的には同じですw。
なのでかつてのメソード俳優たちは『ゴッドファーザー』の脚本にシンプルなシーンが書かれていても、行間からその人物の葛藤を読み取り、想像し、膨らまし、ディテールたっぷりに感情をうねらせて演じる事ができたのですが・・・90年代風キャラクター演技の俳優たちは脚本にフックとなる気の利いたセリフや行動が書かれていないと感情から感情へハッキリと切り替わらないので、演技がボンヤリしてしまうんです。
それで『ゴッドファーザーpart3』でアンディ・ガルシアはソフィア・コッポラへの恋心を魅力的に演じることができませんでした。ガルシア演じるヴィンセントは「敬愛するボスの娘に手を出しちゃダメだ!」と「彼女に惹かれている」という2つの相反する感情を演じようとしているので、タランティーノの脚本のようにそれら2つを細かく切り替える用のフックとなる台詞や動作が欲しかった。でもこの脚本にはそのテのフックがない!シンプルにボスの娘である彼女とのやり取りが書いてあるだけ・・・結果、全てのシーンでぼんやりと彼女を見つめるだけの演技になってしまったのです。
それでは観客は彼らの秘めた恋愛にドキドキできないし、そもそもその恋心がどのシーンから始まったのかすらわからなかったんです。
そしてラスト。彼女が撃たれて死んだときもガルシアは「彼女の死に動揺する色男」を演じたらいいのか「覚悟を決めて毅然とする頼もしい男」を演じたらいいのかを迷ってました。結果、迷ったままフレームの外にはずれ、そのまま映画から退場します・・・残念。
・・・とにかく70年代風の脚本と90年代風の演技法は相性が悪かったんですよ。
それともう一点、バランスの話。
『ゴッドファーザーpart3』ではマイケル(アル・パチーノ)が最初から最後まで一貫して「孤独」と「後悔」に苛まれ沈み続けるので、ヴィンセント(ガルシア)がもっと感情を爆発させて怒り狂い続ける必要があったんです。静に対して動が必要だったんですね。それが映画の後半、出来なかった。
もしガルシアが後半ゴッドファーザーを襲名したあとも「クールな大物ギャング」を外面的に演じながら内面的には「怒り狂う魂」を演じていれば、ソフィア・コッポラとの許されぬ恋も盛り上がっただろうし、ヘリコプターのシーンもただ逃げ惑うだけでなかっただろうし、ジョーイ・ザザをニヤけながら射殺したりはしなかったでしょう。
ガルシアだけじゃない、オペラ座での双子のイケメンボディーガードの暗殺者とのクライマックスの攻防ももっともっとエキサイティングなものになったでしょう。
これらを彼らが全てスタイリッシュに、あっさりと演じてしまったことが、作品からディテールを奪い「退屈」にしてしまったんです。
でももうホントこれは仕方がないですよね。
だってアンディ・ガルシアには70年代マナーのメソード演技はできないし、フランシス・フォード・コッポラには90年代マナーの脚本は書けないのだから。不幸な事故でした。
…でももしも、コッポラが何らかの方法でガルシアたちの90年代のスタイリッシュなキャラクター演技を魅力的に作品に上手に取り込むことができていたとしたら・・・それはそれで素晴らしい「世代交代の物語」としての仕掛けになったでしょうね。
そんな『ゴッドファーザーpart3』も観てみたいなあ!と思ったりするのです。
小林でび <でびノート☆彡>