90年代風の「サンプル&ループ」の演技。
「見せる演技」と「見られる演技」
年末に2022年の邦画をいくつか映画館やサブスクで観たんですけど、映画の中に2種類の演技が混在するような感じになってきましたね、日本映画。
主にタレントさんがやるような「見せるタイプ」の芝居っ気のある演技と、役の人物がやることを淡々と演じてそれを観客が偶然垣間見たような「見られるタイプ」の演技。
当然2020年代の世界水準は後者の「見られるタイプ」のディテールたっぷりの演技なんですね。それは例えば『わたしは最悪。』や『ベター・コールソウル』や『少年の君』のような。
分かりやすく説明すると1986年の『トップガン』でのトムの演技が「見せる演技」で2022年の『トップガン マーヴェリック』でのトムの演技が「見られる演技」です(笑)。
見た目の特徴としては、先が読めるのが「見せる演技」、先が読めないのが「見られる演技」と言ってもよいでしょう。
その後者の「見られる演技」が、ようやく邦画でも少しづつ増えてきたんだなと感じました。
今回1本の映画の中でこの2つの演技を見ることができて、その違いを具体的に感じたんですが、前者の「見せるタイプ」の芝居って、タレントさんや90年代風の古いタイプの俳優さんが主に演じているんですが、彼らの芝居はカメラの向こうにいる観客を強く意識しながら演じられているのですが・・・見てて飽きるんですよねー。
特にアップのショットで延々と台詞を喋ってるショットとか、飽きちゃって背景の方につい目が行っちゃったりして(笑)。
俳優本人は超カッコよいディテールとか、切なさや悲しさのディテールを演じてるつもりなのに、なぜ見てる側は飽きてしまうのか・・・それは彼らが「同じカッコよさ」「同じ切なさ」「同じ悲しさ」のディテールを延々と3秒毎に繰り返しループして演じるからなんですよね。ずっと同じだから早送りしたくなっちゃう(笑)。
いやいや、90年代にはこの手の芝居はみんなドキドキして見てたんですよ。だからこの演技法が間違った演技法だとかそういうことではなくて・・・単に古くなったんだと思います。2020年代の観客のニーズと合わなくなった。
それに対して後者のカメラを意識しない「見られるタイプ」の演技は、状況の変化に合わせてどんどん表情や感情のディテールが変化してゆくので、まったく飽きることなくドキドキしながら見続けることができるのです。
90年代はサンプル&ループの時代。
で、ふと気づいたんですが。そういえば90年代ってサンプル&ループの時代だったなあと。
音楽の話になりますが、90年代のHIPHOPって60年代のJAZZや70年代のソウルやファンクの一番カッコいい1小節や半小節をサンプリング(録音)して、その1小節や半小節を延々とループ再生して、そこにラップを載せるものが主流でした。
過去の素晴らしい音楽のハイライトの瞬間だけをぐるぐる繰り返し再生することが当時あまりにも新鮮で魅力的で、世界中の音楽が当時のHIPHOPの影響を受けてポップ音楽もロック音楽もループを取り入れていたんですよね。
で、ザ・90年代の映画と言えばタランティーノ。
あれも50年代~80年代の映画のカッコいいところだけをサンプリングしてループ再生するような映画でした。
『パルプ・フィクション(1994年)』なんていろんな過去の名作映画やジャンル映画のシーンそのままのサンプリングが沢山あって『8 1/2(1963年)』やら『サイコ(1960年)』やら『キッスで殺せ(1955年)』やら『グリース(1978年)』やら『悪魔のいけにえ(1974年)』やら過去の名作の演技のサンプリングの嵐で。
そして挙句の果てには当時完全に過去の人となっていたジョン・トラボルタをキャスティングして往年の演技をしてもらうという・・・過去の名作映画の最高な部分だけをサンプリングしてループ再生するという映画でした。
続く『ジャッキーブラウン(1997年)』はブラックスプロイテーション映画のサンプリングの嵐だったし。『キル・ビル(2003年)』もジャンル映画のサンプリングの嵐でしたよね。
サンプル&ループ・・・要するに元ネタの映画でクライマックスで一回しかやらなかったような演技をサンプリングしてそれをキャラ化して繰り返し演じて見せるというのが、あの90年代のエキセントリック演技の正体なのかも、という気がしてきました。
よく考えるとティム・バートン版『バットマン(1989年)』のジャック・ニコルスンのジョーカーの演技なんて、それこそアメリカンニューシネマ時代のメソード演技のクライマックスシーンでよくあったキレたエキセントリックな瞬間のみをサンプリングして、映画全編でループした芝居そのものじゃないですか。
日本でも「見られる演技」の時代が。
90年代のHIPHOPはそんな「サンプル&ループ」の嵐だったんですが、ではさて2020年代の今のHIPHOPはどうなのか?というと・・・もうサンプルのループ一発で攻めるような音楽は皆無です。
ループみたいな過去の素晴らしい音楽の繰り返しではもう観客が熱狂しなくなっちゃったんですよ。そういうスタイリッシュさはむしろもう退屈で、もっとリアルで生々しいものが求められている。
過去の素晴らしいものをオシャレに楽しむことではなく、いま起きつつあるものが切実に求められている。
米国のHIPHOPグラスパー等によってJAZZと融合されて、例えばケンドリック・ラマーの音楽のようにもっと複雑なディテールがあって、一曲の中で曲想がどんどん変化していくような音楽に進化しています。
で、ここからが本題なのですが(笑)、このHIPHOPの進化の過程と、映画や映画の演技の進化の過程って、シンクロしてると思うんですよね。だって観客である世界の一般的な人々の心がいま一番求めるものが創り出されて、音楽も映画も演技も進化してゆくわけですから。それは当然連動するわけですよ。
ループ的な「カッコいい瞬間の繰り返し」を楽しむ時代は終わって、もっと「生々しい変化し続けるディテール」が観客の心を打つ時代が来ています。
欧米・韓国などに続いて、日本の映画の演技もその潮流に乗り始めたんだと思います。それを一番感じた2022年の邦画が『あのこは貴族』でした。
『あのこは貴族』主演の門脇麦さんは完成した映画を見るまでかなり不安だったらしいです。それまでずっとやってきた「見せる演技」をせずに、淡々と人物を演じて撮影されることで、その表現が観客に届くのか不安過ぎて、完成した映画を見て伝わっていることを確認して、安堵で泣いてしまったらしいです。
2023年は邦画がすごく楽しみになってきましたね。
さて2022年最後の「でびノート☆彡」でした。
来年も演技について色々と思うところを書いてゆきますので、お付き合いいただけますと幸いです。
前回の「でびノート☆彡」で告知した、俳優のメンテナンス的な演技ワークショップもまだ参加者募集中なので、俳優の皆さんはぜひともご応募ください。 新しい時代を一緒に歩んでゆきましょう。
それではみなさま、よいお年を~!
小林でび <でびノート☆彡>