本当は超エキサイティングな落語の演技(前編)
じつは私ここ一ヵ月ばかり、花粉に声帯をやられて声が出ない日々を送っておりまして、落ち込んで引き籠り気味だったんですが。
そんな時に友人が落語を観に連れ出してくれまして。あの、落語って喋りで全てを表現するじゃないですか。男も女も殿様も貧乏人も侍も坊さんも魑魅魍魎も、気候・天候その他の状況描写も、派手な立ち回りも・・・ぜ〜んぶ座布団の上でひとりで演じますよね。喋りと動作だけで。
それが声の出ない自分にカーン!と響いちゃったんです。
いや前半戦の若手の落語は「いかにも落語っぽい感じ」だなーと思うだけで正直退屈だったんですよ。でも後半戦、柳家喬太郎さんと入船亭扇辰さんの落語を初めて生で観て・・・ちょっとこれは「演技」としても凄いぞ!と。なんだ年配の落語家さんの方が攻めてるじゃないか!と。
それからというもの、毎日YouTubeやらDVDやらで落語を見まくる毎日・・・なので今回のでびノート☆彡は、その「落語の演技がいかにエキサイティングであるか!」について語ってみたいと思います。
あ、今回のブログを書くにあたって文献などを読むのではなく、いつもの映画の演技を解析してるソレとまったく同じ方法で「落語の演技」を解析して書いていますので、悪しからずー。
さて、いきなりですがw。
「落語の演技」を根本的な構造という観点で、大きく2タイプに分類させてください。 それは①【落語家自身がストーリーを語るタイプ】と②【登場人物たちにストーリーを展開させるタイプ】です。
① 【落語家自身がストーリーを語るタイプ】
落語家がストーリーを観客に話して聞かせる、という形式で進行するタイプ。
主役は落語家で、物語を「バカな奴がいたもんで~」とか登場人物ではない第3者であるその落語家自身の批評的な視点でもって語ってゆきます。
登場人物よりもむしろ落語家本人がキラキラ輝きながら、落語の最初から最後まで、その華麗に磨き上げられた喋りとキャラで観客を魅了する・・・このタイプの落語家さんが多いし、一般的な落語のイメージもコレなんじゃないでしょうか。
もちろん台詞は上下(右向いたり左向いたりしながら2人の人物を切り替えること)で演じるんですが、描き分けきらないというか、あくまで人物を「職人」「おかみさん」「与太郎」「ご隠居」「大旦那」「若旦那」「女中」「遊女」などわかりやすく類型的に説明的に演じ分けられるにとどまり・・・演技としてのキャラの憑依度は浅い。
このタイプの面白くない落語家さんは、この自分自身のキャラを作り過ぎてる気がするんですよねー。いかにもな「落語家でござい」みたいなキャラで自分を偽っちゃうと、作り物ですから表情とか感情の起伏のディテールが乏しくなる。とうぜん魅力は減るわけです。落語家本人の魅力が無いとアッという間に退屈になりますからねー。 このタイプの面白い落語家さんは自分を偽らず、正直にお客さんに向かいあってる印象があります。
この①のタイプの落語家さんは、あと有名どころでは春風亭昇太さんなんかがそうですね。昇太さんはどこを切っても昇太さんですw。
② 【登場人物たちにストーリーを展開させるタイプ】
マクラの小咄では①と同じように落語家本人の喋りとお客を楽しませていた落語家が、本題に入るとスッと気配を消してしまって、代わりに登場人物たちがそこに現れて物語を演じはじめるタイプ。
本題に入ったら落語家本人はナレーターとして控えめに登場するだけで、主役は登場人物たち。サゲ(落ち)だけ落語家本人が戻ってきてオチの台詞を言ったりしますね。
このタイプの演技の特徴は、登場人物たちの演技の中に落語家本人の個性があまり入っていないこと。人物描写は「類型的・説明的」の領域を越えて演者がその人物になりきって演じられます・・・演技としてのキャラの憑依度が深い。
このブログの冒頭で紹介した柳家喬太郎さん入船亭扇辰さんはこの②のタイプですね。柳家喬太郎さんはかなりデフォルメされた人物造形で、入船亭扇辰さんはリアルな人物造形で本題のドラマを演じてらっしゃいます。彼らのYouTubeご覧になりました?すごいでしょ?
なにが凄いって、われわれ俳優はたったひとりの人物を演じるだけでもう大変じゃないですか。役作りとかパフォーマンス中の集中とか。 それをこの②のタイプの落語家さんたちはひとつの演目の中で複数人の演技を取っ替え引っ替えやってるんですからね。しかもその人物同士が会話したり、喧嘩したり、恋愛したり、大立ち回りを繰り広げたりするんですから!超人かよ!と・・・考えただけで気が遠くなる(笑)
立川談志さんはよく「登場人物が演者のコントロールを離れて勝手に動き出す、勝手に喋り出す」みたいに言ってらしたみたいですね。落語だということを忘れちゃうくらい感情移入して噺の中に入り込んじゃうらしいです、深い深い。
この②【登場人物たちにストーリーを展開させるタイプ】の落語家さんの最たるものは古今亭志ん生(5代目)ではないでしょうか。
志ん生は凄い!志ん生は凄い!ってよく言われるじゃないですか。スケールが違う!とかw。志ん生の凄さをボクなりに「演技」の観点で言わせてもらうと・・・志ん生は人物造形が超超超超超リアルなんです!
マクラでは志ん生本人の飄々としたキャラを前面に出して楽しい話をするんですが、いざ本題が始まると志ん生本人はスッと消えて無くなって、高座には喋りも動作もまったく別人の登場人物たちが存在してやり取りをしているだけの空間になるんです。
しかもその演技が超リアリティあるんですよ。何度か「うわー、江戸時代の人だ。すげえリアル」とか思いました。江戸時代の人なんか見たことないのに!(笑)。本物の江戸時代の人がそこに居るとしか思えないような実在感がそこにあるんです。
そしてこの②のタイプには批評的視点が入らないんです。だから本題における志ん生さんの状況説明のナレーションには「バカな奴もいたもんで~」みたいな批評的視点が入らない。あくまで状況を淡々と控えめに語るのみです。その登場人物がバカな奴なのかどうかは観客が判断する。
たとえば志ん生さんの『風呂敷』なんかナレーションゼロですからね。登場人物たちのリアルなやり取りが演じられているだけです。だから「バカな奴もいたもんで~」も何もないんですよ。
登場人物全員がそれぞれがそれぞれの別の価値観で生きていて、お互いにお互いを「バカな奴だなねぇ」と思いながら生きている(笑)。ある意味全員バカ(笑)。
だからある種の「バカの壁」というか、強烈なディスコミュニケーションが常に発生していて、それが強烈な笑いを生み出してゆくんです。
この志ん生さんの「批評的な視点の無いコメディ作劇」ってモンティ・パイソンとかと構造的にひじょうによく似ていて、これって時代が変わっても古くならないんですよね。世間の常識の変化に影響されないから。どんなに時代が変わっても人間の本性は変わらないですからね。
志ん生さんの演じる人物は志ん生さん本人のキャラとは全く関係なく、ま~いろいろです。そしてどの人物も一筋縄ではいかない人間ばかり。でもってどいつもこいつも自分が一番正しいと思ってるので・・・この辺が超リアルな役づくりなんですが(笑)。言い争いになるとどの人間もまったく話が通じなくなってしまって、それぞれの人物のそれぞれの面倒くささが出てきて「かなり危険」な雰囲気が漂い始めるんです。しかも江戸弁で啖呵きったり怒鳴りあったりするから怖い怖い。その一瞬即発の雰囲気が観客に手に汗握らせて、いや~面白い! リアルな演技が観客をエンタ-テイメントした典型的な例ですね。
そしてサゲ(落ち)も志ん生さん本人に戻らずに登場人物が言って終わったりします。たとえば『風呂敷』であれば熊五郎が超リアルな江戸時代の職人丸出しで「なんだ、そいつぁ上手く逃がしやがったなぁ!」で、ぺこりと頭を下げる。拍手。・・・このズバッと切り取られる感じ。マクラの時の飄々とした志ん生さん、最後まで帰ってこないんですよ(笑)。終わったときそこには芸に圧倒された観客の感動だけがあるんです。
いや落語と言えば志ん生だ志ん生だってくどいくらい言われるんですが、やっぱり志ん生さんは圧倒的ですよ。 志ん生さんの落語は動画では4つだけ残っているようで、どれもYouTubeにアップされているんですが、4つのうち『風呂敷』『岸柳島』『おかめ団子』が志ん生さんが元気なころのパフォーマンスなのでオススメです。
やはりこの②の【登場人物たちにストーリーを展開させるタイプ】の落語は動画で見ないとですね。演技がすごいんで、音だけではこの凄さは伝わりきらないですよ。
うわー。志ん生のエキサイティングさについて書いてたらあっという間に字数が尽きてしまった。しかもまだ書きたいことの半分くらいしか書けてないという(笑)・・・なので前後編に分けることにしました。
この前編では「落語の演技」の構造を【落語家自身がストーリーを語るタイプ】【登場人物たちにストーリーを展開させるタイプ】に分類して解析しましたが、後編は「落語の演技」のその演技法についてまた幾つかに分類して解説したいと思います。
そう、落語にも演技法の系譜が幾つかあったんですよ。で、それがいま見て面白い落語とそうでない落語の違いを生んでいる・・・みたいな。
それらについて次回「本当は超エキサイティングな落語の演技(後編)」で書きたいと思います。乞うご期待!
・・・とはいえ、テーマが落語だと興味持ってくれる人、少ないのかなあw・・・いやいや。ボクにとって旬なテーマなんで、がんばって書きますよ!
小林でび <でびノート☆彡>
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