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方法としての理性――デカルト覚書
* 2022年10月19日にツイッターで認めた小論である。この手の覚書が沢山あるので、折を見て Note に移し替えて行きたいと思う。
«Le bon sens est la chose du monde la mieux partagée (...) la puissance de bien juger, et distinguer le vrai d'avec le faux, qui est proprement ce qu'on nomme le bon sens ou la raison, est naturellement égale en tous les hommes (...) »
— 蕩尽伝説 (@devenir21) October 19, 2022
Descartes, Discours de la métode.
Le bon sens est la chose du monde la mieux partagée (...) la puissance de bien juger, et distinguer le vrai d'avec le faux, qui est proprement ce qu'on nomme le bon sens ou la raison, est naturellement égale en tous les hommes (...) . ――Descartes, Discours de la métode.
Le bon sens n'est autre que notre puissance de bien juger, ou raison.
世にこの上なく誰もが共有するものが良識である(…)適切に判断を下し、真と偽を区別する能力、それこそが良識ないし理性と呼ばれ、生まれつき等しく万人が分かち持つものである。
この数年、デカルト・ロケンロールからライブを始めている。ノリが好くていい。去年は Zoom ということで台本も作った。今年は忙しく、それを読めばいいや、という安直な気持ちでツアーに臨んだのだが……
「世にこの上なく誰もが共有するものが良識である」というのは『方法序説』の書き出しで、高校時代に読んで以来「そりゃそうでしょ」と特に気にも留めてこなかった。が、昨日対マンでこの個所を読み上げていたところ、あれ?と不思議に思った。
というのも、プーチンに良識などありそうにない。テレビに出てくる政治家や有名人にも良識の持ち主などいそうにない。デカルト本人にも良識があったかどうか、今となっては疑問だ。ことによると良識を持ち合わせている人類などオレひとりではないか?
この個所は考証的にはキケロやセネカ、ひいてはモンテーニュの影響があるとされる。さかのぼればプラトンで、『テアイテトス』において真偽を区別する方法が検討され、「かんたん、かんたん!」と自信満々に議論を始めたソクラテスが完敗するに至る。
プラトンは真偽を判別する能力が理性だなどと全く思っていない。むしろその不可能を説くのが対話篇の本質だと言っても過言ではない。ところがデカルトはそれが出来ると主張する。生まれつき誰もが出来るはずだ、と。そうした判断力が良識であり、理性であると彼は説く。
誰もができるはずなのに、実際にはできない。それは持ち前の理性が悪いのではなく、その用い方がまずいからだ。理性を正しく使用せねばならず、そのために方法が必要なのだ、と。理性とはむしろ「方法」なのである。
注意せねばならない、「良識」という言葉は通常こんな意味で用いられていない。とりわけ日本語の場合、良識(ないし常識)のある人というのは、酸いも甘いも噛み分け、清濁併せ飲む器量のある人のような印象をあたえる。世間で上手くやって行くための通俗的な道徳観にすぎない。
デカルトの良識はそうではない。そもそもフランス語の sens には「方向」という意味がある。正しい方向を見分けるための感覚、それが「良識」である。真偽を厳しく判別する。偽りを斥ける。そんな感覚を誰もが生まれつき持っているのだとデカルトは主張するのである。
プラトンは決してこんな途方もないことを言いはしなかった。こうした方向に舵を切ったのはキケロやセネカというより、直近のモンテーニュである。「エセー」とは厳密に言えば真偽の「試し」であり、かれはそうした発想をピュロン派の懐疑主義から学んだ。デカルトの懐疑主義もその系譜にある。
とはいえ、デカルトはそれをこの上なく明快に言い切った。万人が生まれながらに良識すなわち理性を持つ、と。良識としての理性を持つ人間は誰であっても尊重されねばならない。ここには普遍的で基本的な人権という発想が潜在している。まさにロケンロールである。
みんな理性を持っているはずなのに、なぜ人により意見が異なるのか。それは理性を多く持つ人と、少なく持つ人の違いではなく、個々人の考え方が違い、それを導くやり方がまちまちだからだ。
「良い精神を持つだけでは十分ではなく、肝心なのはそれを良く用いることだ」と彼は言う。というのも、良い精神とは偉大な魂の持ち主である。そんな人たちは最善の徳行もすれば、時に最悪の悪行もする。それでは困ってしまう。判断力がないとダメなのだ。
自分は頭の回転が鈍く、ひとより想像力も記憶力も劣っている。しごくちっぽけな魂しか持ち合わせない。そんな人間はひどくゆっくりとしか歩けない。でもつねに正しい道をまっすぐ進むなら、どんどん見当違いの方向に走ってしまう人たちより、はるかに前進できるのだ、と。
自分が何とかやってこれたのは、若いうちに正しい方法を見出し、それに従ってきたからだと41歳のデカルトは述懐する。この本では、自分がたどってきた人生の道のりをあたかも【絵】のように示したい、と。
ただしそれは、あくまで私が自分の理性をいかに導いてきたかというやり方にすぎず、各人が自らの理性をどう導くかという正解を示すものではない。いいかえれば、各人が自らの方法を見出すべきだというオチで、どうやら唯一の正しい方法があるというわけではなさそう。
「方法」が必要だというくせに、それは万人に適用できるものではない。自分の方法は自分で見出せと言うのだ。そんなの方法とは言えないのではないか。もし真偽を判別できるのであれば、方法的理性も自ずと1つに定まるはずだ。
実際には真と偽のあいだに、真でもなければ偽でもないグレーゾーンが必ずや伏在しているはずで、デカルトはそれが存在しないかのように強気に振舞った。むやみに歯切れが良い。だからロケンロールなのである。
明確に真偽を判別できるのは数学(ないし算数)における公理系の内部において(のみ)であり、実際の生活はその外にある。情念に左右される人生に正解などない。だからこそ人により異なる方法が必要とされるのだ。むろんデカルトも後年それに気づいた。だから『情念論』を書いた。
ライブ中にふと思いつき、延々とアドリブをくり広げ、以上のような考察に辿り着いた。エリック・ドルフィーが言うように、アドリブは煙草の煙のように消えてしまう。それではモッタイナイので、ここに書き残しておくことにする。