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日常と非日常の境界

北九州市立美術館において、石井勢津子氏の個展が開かれている。
石井氏は日本のみならず、世界においてもホログラフィ・アートの第一人者とのこと。写真撮影を趣味としている愚生にとっても、立体的に見える写真となれば、いったいどういうものなのか興味津々である。
実際この目で見ると、その立体感は想像以上にリアルかつ繊細。抽象画から風景、草木、人物、或いはゴムホースや毛糸玉に至るまで、幅広い対象が作品の中で重力を無視するかのように浮かび、現れては消え、飛び出し、壁や床の奥深くに沈み込んでいる。

作品によっては立ち位置や目線の微妙な角度の違いによっても、劇的に映像や色彩が変わっていく。たとえば野の草花とその背景を写した一枚の写真を角度を変えて観ると、昼間だったり、夕暮れだったりというように時間帯まで変化していく。
或いはポートレートにしても、見る角度の微妙な違いによって、複数の位置に人が現れたり消えたりといったことが頻繁に起こる。これは写真という画像を鑑賞することとは明らかに異なる反応が起こる。

立体的なビジョンを見せる「VR」は動画を利用して360度の人工的なリアリティを疑似体験させるものだが、このホログラフィ・アートのリアリティはあくまでも視界の一部をフレーミングした写真的かつ絵画的なものであり、やはりこれもまた違った感覚が沸き起こる。

写真を見る場合、眼に入ってきた画像は、脳内で立体的なものへと直感的に解読している。脳内で起こる解読作業には、過去の人生経験や思考や感情などの影響が加わり、人によって印象が大きく異なるという現象が起こる。この時、撮影者と鑑賞者の間には何らかの意識の共鳴共振が起こるということが写真の面白さの一つだと思う。
記憶に残る映像は立体的というより、曖昧模糊とした平面的なものであり、それが写真に映し出された映像に近い故に、意識との共鳴が起こりやすいのではないか。

ところがホログラフィ写真を目の前にした時には、そういう意味からすると、過去の人生経験や思考感情を拠り所にして解釈しようとすることができない。目の前のフレームの中で、半透明なシルエットが重力を失って立体的に浮遊したり、現れたり消えたりするのを見ることは、過去の人生経験において共鳴する記憶が何もないからだ。

石井氏は展覧会会場の案内文の中で、こう述べている。

『アートは日常と非日常の境界に存在する。作品から創出された環境空間に身を置いた時、日常の中では潜在意識の底に隠れ眠っている感性が作品を通してよびさまされ、自己の新たな発見となるはずである。』

石井氏の作品を見ることは今まで知らなかった新たな感性や自己の発見にも繋がるということだ。つまり過去の経験や知識は役に立たない。今まで開けることのなかった引き出しを開けなければならない。それは写真という平面アートを創作する人にとってはかなり刺激的なメッセージとなるだろう。

石井氏の作品はすべて撮影可能、SNSで公開可ということで、そのごく一部をここで紹介したいと思うが、言うまでもなく、写真に撮ったホログラフィ写真は立体でもなんでもなく、ただの平面写真である。実物の僅か数パーセントの雰囲気しかお伝えすることができないというジレンマは、写真以上に強い。
これらの写真を見る時には、そのすべてが「立体的な映像」であるということを想像しながら見て頂く他にない。
そして興味を抱かれた方は実際に展覧会に足を運んで、日常と非日常の境界を「体験」し、感性と自己の新たな発見をして頂ければと思う。


会場案内文 
『展覧会によせて』


このメディアとの出会いは全くの偶然だった。
ある時ふらりと街を歩いていて、おやっ?と目に留まるものがあった。
❝何?❞の好奇心に誘われて、近づいてよく眺めると❝なんだ?これは?❞の疑問符が頭の中をぐるぐる回り始めた。空中に見える像が移動すると動く、手中にあるのに掴むことができない。これまで経験したことのない視覚体験にすっかり心を奪われてしまった。これがホログラムとのEncounter(遭遇)であった。
まだホログラフィが一般的には知られておらず、アートメディアとしての可能性など全く未知のころだ。絵の世界でやっと歩き始めたときであった。
このメディアをもっと知りたい、どんな原理でどのような表現が可能なのかと気軽に飛び込んでみたら、未知の広く奥深い世界がどんどん広がり、次から次へと新しい興味が触発され今に至っている。
はじめは見えているのにそこに実体がないという三次元の立体の虚像に惹かれた。この新たな体験は私の意識を平面から立体へと導き、二次元の絵画から三次元のオブジェや空間全体の環境を表現の場ととらえるインスタレーションの表現への移行のきっかけとなった。
ホログラム像を再生するには光が欠かせない。画像に現れる鮮やかな色彩は、再生光源がいろいろな波長に分解されて見えているのである。
この光源にはいろいろ条件が伴うが、太陽光は理想の光源の一つであることを知る。それまでは当たり前の存在であった光に対する意識が触発された。
空気と同様無意識的存在であった太陽の光が、万物この地球上の私たちにとってもっとも身近な自然で、なくてはならぬかけがえのない存在であることにも気づかされた。私の表現の興味は暗い室内から屋外へ、野外の太陽を取り囲む環境アートへと広がっていった。
ホログラフィは光と紡ぐメディアである。誰にも経験があろう、雨上がりの虹、真っ赤に燃える夕焼け、すべてを包み沈めてしまう薄暮の深い青にハッとする瞬間、太陽の光の存在に気づかされ、自然そのものを意識されられる。ホログラフィは光の色を絵の具とし、三次元の空間そのものをキャンバスに見立て、観る人たちを包みこむような環境空間の創出を可能にする。
光を粘土のように手の中に収め形作ることを可能にする。雨上がりを待たずとも自在に太陽と戯れ、虹を創りだす。そこに創出された空間では、観る人は燃える夕焼けや薄暮の深い青と出会うことも可能だ。
アートは日常と非日常の境界に存在する。作品から創出された環境空間に身を置いた時、日常の中では潜在意識の底に隠れ眠っている感性が作品を通してよびさまされ、自己の新たな発見となるはずである。それは長い間眠りについていた記憶を思い出すことかもしれないし、今まで意識したことのない感覚かもしれない。
この展覧会で創出された作品空間を通して、観る人自身の内なる新たな体験を紡ぎだし出合っていただけたら、この上ない幸せである。
この展覧会の実現にご尽力下さった皆様に感謝を申し上げたい。
                              2022年
                            石井勢津子

北九州市立美術館



























































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燿
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