『山中湖にて』(1) レジェンド探偵の調査ファイル,浮気調査(全11回)
『現役探偵の調査ファイル 七人の奇妙な依頼人』 福田政史:著
【第五話】山中湖にて
1
土井たか子が社会党初の女性党首になり、「おたかさんブーム」に沸いていた昭和六十一年九月——。月半ばを過ぎたというのに、その日は残暑というより夏がぶり返したように暑い日だった。
ぶーんとエアコンの低い音がする事務所には私と電話番の恵美子だけである。私は昨夜の麻雀の疲れでソファでうとうとし、恵美子は私の机に座って分厚い海外ミステリーか何かを読んでいる。(彼女はわがもの顔で私の机を占領し、暇なときは日がな一日読書にいそしんでいる)。調査員たちは一階にある喫茶店でアイスコーヒーでも飲みながら私の悪口を言っているのだろう。
当時の事務所は、新宿駅から歩いて六、七分と交通の便は良かったが、ワンルームマンションにある六坪足らずの狭い部屋だった。正面奥に私の机、その前に四人掛けの応接セットがあり、左側の壁には調査ファイルや地図などが入った書類棚が置かれていた。一応、事務所の体裁は整っているものの、調査員が報告書を書くスペースもなく、電話番の恵美子の机もない。
ちなみに、その事務所は狭いながらも二年前ほど前に購入した〝自社部屋〟だった。恵美子から「まるで犬小屋を買うように決めた」と呆れられたのだが、確かにそのとおりだったかもしれない。二年前、得意企業に調査費を集金しに行った帰りだった。このマンションはそのころまだ建設中だったのだが、(新宿駅にも近いし、ここなら事務所として便利だな)と思いながら見ていると「モデルルーム公開中」という張り紙がある。フラフラッと入った私は、不動産会社の営業マンに「毎月のお支払いは今の家賃程度」と言われ、集金したばかりの十万円小切手を申込金として渡したのである。こうして千二百五十万円のワンルームマンションを即決即断で決めたのだが、事務所に帰って恵美子に報告すると、「んまー……」と言うなり絶句したものだった。
うとうとしていた私の耳に、ピンポーンと言う玄関チャイムの音が聞こえた。
「所長、お客様みたいよ」
恵美子は本から顔も上げずに行った。
「ったく……どっちが所長だかわかりゃしない」
私はソファから起きると、ドアの方に行く。狭い事務所だから五、六歩も歩けばもう玄間である。
ドアを開けると、私と同じか少し若い(当時、私は四十二歳だった)女性が立っている。
「いらっしゃいませ」
と言いながら改めて来客を見ると、高級そうなベージュ色のツーピーススカートを着て、顔は女優の朝丘雪路に似たなかなかの美人だった。額の汗をピンクの花柄が刺繍された
白いハンカチで拭いながら、
「あのう、ご相談したいことがあるんですが」
と、か細い声で言った。
「さて、どんなご相談でしょうか。秘密は厳守しますからご遠慮なくおっしゃってください」
と、わざと快活そうに話しを促した。
「はい。あの、私は長谷川……長谷川悠子と申します」
彼女はここまで言ってそのままうつむいてしまった。
探偵事務所を初めて訪問する依頼人には、こんな人も少なくない。切羽詰まって探偵社に来たものの、依頼するかどうか迷っている。あるいは、依頼するつもりだが、どこからどう話せばいいかわからないということもある。
うつむいてハンカチを握りしめている依頼人(この時点ではまだ依頼人ではないが)は、中流以上の家庭の主婦のように思えた。私は我慢強く彼女が口を開くのを待ったが、恵美子がお茶を置いて机に戻っても、まだ下を向いたままだ。
しびれを切らした私は、
「どんなことですか?」
と、やさしく聞いてみた。
彼女はやっと顔を上げると、「実は……」と話を切り出した。