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古代より続く火山信仰の里🌋阿蘇市歴史さんぽ⑦ 【上御倉古墳】

こんにちは。今回は阿蘇市散策レポートの7回目です。今回は阿蘇神社の主祭神•健磐龍命(たけいわたつのみこと)の御子で初代阿蘇国造•速瓶玉命(はやみかたまのみこと)を祀る国造神社に隣接する、上御倉古墳のレポートになります。

上御倉古墳のすぐ近くには少し規模の小さい下御倉古墳があるのですが、両古墳は古墳時代後期の6世紀に作られた横穴式石室をもつ円墳で、阿蘇国造夫妻の墓と伝わっています。地元の伝説によれば上御倉古墳が速瓶玉命、下御倉古墳が速瓶玉命の妃である雨宮媛命の墓とされています。

残念ながら下御倉古墳の方は入り口が完全に土砂で塞がっていて見学できる状態ではなかったので、今回は上御倉古墳のみレポートさせて頂きます。上御倉古墳はなんと玄室内部に入れるようになっていて、私も玄室初体験してきました!そこでちょっとしたビックリ不思議体験をしましたので、その時のドキドキ感が伝わるように今回も散策実況形式でレポートしていきたいと思います❣️(5000字)

上御倉•下御倉古墳は国造神社と駐車場を挟んで隣接しています。画像下の風宮神社は後で触れますので覚えておいてくださいね🌬️

国造神社については前回の記事をご参照下さい↓

それでは、国造神社の駐車場から上御倉古墳に向かいましょう🏃‍♀️

駐車場脇の道標

因みにこの道標に従って進むとヤマメ料理の店があるのですが、(釣り堀併設で夏場は結構賑わっている)上御倉古墳はヤマメ料理の店の裏手にあります。最初場所が分からなくてお店の方に教えてもらったので、結構分かりずらいかもしれません💦店の裏手の落ち葉に埋まった小道を進むと、古墳の開口部と案内板が現れます。

上御倉古墳(県指定史跡)

お店の方によると古墳内部に入ることができて、外側に照明のボタンがあるとのこと。(最初分からなかったのですが、上の画面上の、案内板横のボックスに照明ボタンが付いています。)
まずは例によって、案内板を引用しますね。↓

        上御倉古墳
速瓶玉命の神陵と伝えられている。南西に開口する複室の横穴式石室で石室は巨大な切り石で構築され、熊本県内では代表的巨石墳の一つである。
円墳の直径は33m、高さ5.3m、内部は複室からなる横穴式石室を備え、奥行きの全長約10m、石室はすべて安山岩の巨大な石材と、阿蘇溶岩の切り石をもって構築し、壁面には丹彩のあとがみられる。

内部断面図アップ

因みに別の案内板によると、上の図でもわかるとおり、玄室には阿蘇凝灰岩で造った石屋形があり、その屋根石は前方にずり落ちている状態です。(※石屋形とは横から遺体を納める形の開かれた石棺で、福岡県南部から熊本県内に特徴的なものだそうです。)それから、現在は無くて見れないのですが、図の第二羨門を塞いでいた板石には外側の面に絵が描かれていて、上部に白色で山のような描写があり、その下は一面に薄い黄色で色を付け、その中央部に両手を広げた濃い黄色の人物像が小さく描かれていたそうです!正に阿蘇の王を象徴する図柄ですよね〜✨それも阿蘇火山を大きく、人物(国造だった被葬者でしょう多分)を小さく描くところが、自然の偉大さと人間の謙虚さを表しているようで素敵だと感じました✨

それでは古墳の内部構造を事前学習したところで早速中に入ってみたいと思います!玄室人生初体験!ワクワクしますね〜😆💓とはいえ、1人だったら私といえども古墳内部に入るのは躊躇したと思います💦だって、古墳の入り口こんな感じなんですよ↓

めっちゃ怖い😱それも写真では分かりにくいですが、90度近く腰を折らないと中に進めない狭さなんです💦しかし、この日の散策は幸いにして連れの友人がいたので助かりました。彼女は古墳の中には別に入らなくてもいいということで(笑)外で待機してもらって、1人で古墳探索に出発です!

※その前になんとか古墳内部の照明のボタンを見つけて照明を付けたのは言うまでもありません。暗くて先が見えない状態だったら怖すぎて絶対無理なので。

「お邪魔します🙏」とご挨拶し、ビクビクドキドキしながら羨道を進みます。石壁には水が滴っていて、内部は真夏にも関わらずヒンヤリしています。
そしてこちらが玄室の入り口から撮った玄室の全体像です。前面にずり落ちた凝灰岩の屋根石が存在感あります。

そしてこの写真が玄室を撮影した写真の全てになります。おい!壁の丹彩の跡とか、天井のドームとか、もっと詳しく探索してレポートせんかい!と思われた方、ごめんなさい🙇‍♀️根っからのビビりな私は、この時点で心臓バクバクな状態だったことに加えて、フラッシュをたいた次の瞬間「わっ!」と叫び声をあげてしまいました。だって、フラッシュに反射した白い煙が、玄室の左から右へ向かってモクモク流れてくるんですもん。(証拠写真↓)

写真では分かりづらいですが、結構なモクモク具合なんですよ!フラッシュをたいてない時は気づかなかったので余計びっくりしてしまいました💦
古墳の外で「大丈夫ですか〜?」と心配そうに声をかける友人。すでに正常な精神状態でない私は、ご挨拶して早々に退室し、そそくさと古墳の外へ出たのでした😅

後になって冷静に考えると、あの白い煙は古墳の主様のなせる技!というわけではなく、十中八九、水蒸気なんでしょうけれども、根っからの文系で自然科学に疎い私は、なお疑問に思うことがあります。現場では確かに水蒸気の流れを目視で確認したのですが、盛り土で固められた石室内部にあのような空気の流れが存在するのかな?という点です。

この不思議現象はひとまず置いておいて、後日読んだ『阿蘇神社』に、上御倉古墳に関する興味深い記述がありましたので以下にご紹介したいと思います。前提として、上御倉古墳のある国造神社(手野)と、肥後一の宮•阿蘇神社(宮地)は南北に6キロほど離れた位置にあり、それぞれの神社の近くには「風宮」という小さなお宮さんがあることを頭に入れておいて下さいませ。

 また阿蘇社の重要なおんだ(御田)祭で歌われる「御田歌」は、「手野の宇土から風折姫がひそひそ招く」と唄う。手野とは阿蘇神社の祭神、健磐龍命の御子である阿蘇初代国造をまつる「北宮」、つまり国造神社の鎮座する土地である。
 その国造神社脇に開口している上御倉•下御倉の両古墳のうち、上御倉古墳の穴を、里人は「風穴(かざあな)」とよぶと『蘇溪温故』は記している。「宇土」とは、「穿土•虚(うろ)」と洞穴をしめし、風折姫のすまいであると田歌は理解しているが、地に穿たれた穴にも神の棲家があったのである。
 阿蘇の地は高地であるから風と霜はきびしく、往々にして災厄をもたらした。風の神は祝(ほうり•神をまつる古代の神主)や住民の風逐祭によって、風穴に封じ鎮められねばならなかった。

阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社 p.20

         風祭り
二つの風宮 農業にとり大敵の悪い風をしずめるのが風祭りである。歴史は古く、平安時代の延期式にも4月4日と7月4日の2回と定められている。中世の阿蘇社でもこの両日に風追いの祭りが行われた。現在も旧暦の4月4日と7月4日に宮地の風宮と手野の風宮で行われる。
 現在、阿蘇神社の少し北にある風宮の内陣に小豆握り飯を神饌とする神事が行われ、風鎮めの祝詞が奏上される。(中略)直会後、昼過ぎに、神職2人が二手に別れて約5キロの道すじを国造神社の近く、手野の風宮に御幣をかざしながら向かう。これは阿蘇谷の邪悪な風を手野の風穴に封じ込めるためという。手野の風宮で合流し、宮地の風宮と同じように小豆握り飯を神饌として神事を行う。手野の風宮では、2本の御幣が神体となる。(中略)
手野の風穴 「蘇谷志料」によると、手野の北宮近くに洞穴があり、深さは不明、文化年間(1804〜1818)に松明を燃やして中に入ると、深さは二間ばかりで中は横に通じ、川もあったが恐ろしくなって引き返した。この風穴に牛馬などが落ち込むので風穴の入り口をふさいだとのことである。
 おんだ祭りに歌われる田歌の中には、「手野の宇土(洞窟のこと)から風折姫がひそひそ招く」という歌詞もある。
 手野には上御倉古墳、下御倉古墳があり、この古墳の横穴が風穴として、恐れられていたのかもしれない。

同じく『阿蘇神社』p.165-168

つまり、何が言いたいかというと、昔の人達も私が体験したのと同じようにおっかなびっくり古墳の中に入って、水蒸気を通して空気の流れを感じたのかもしれない。そしてそれを風折姫が起こす風だと思ったのかもしれない、ということです💡

さて、ここで記事を終わっても全然まとまると思うのですが、もう少しお付き合い下さい🙇‍♀️石室内部での「空気の流れ」についてもう少し考えてみたいと思います。そもそも「風穴」とはもちろん古墳を表す言葉ではありません。私も詳しくは知らなかったので調べました。

かざ-あな【風穴】
山腹などにある大きな奥深い穴。夏、冷風が吹き出る。ふうけつ。

デジタル大辞泉(小学館)

つまり、風が吹き出る自然にできた穴を風穴と呼ぶようです。もう少し詳しく風穴について知りたくて参照した『日本の風穴』によれば、風穴から冷風が吹き出す原理は以下の通り。

風穴内部の温度が外気温に比べて低いときに、風穴内部の温度が重いために風穴から冷風が吹き出す。風穴内部と外気温が同じ時には風の吹き出しは止まり、風穴内部の温度が外気温に比べて高いときには、風向が逆になり風穴に空気が吸い込まれる。

つまり、風穴内外の空気の温度差による対流によって風穴風が発生するというメカニズムのようです。そして、風穴内外の温度差が大きいほど強風となるとのこと。ただし、風穴風が発生するには空気の通り道確保のためにもう一つ、上方に「温風穴」の存在が必要のようです。(夏には上方の温風穴から空気を吸い込み下方の風穴から冷気を吐き出す。冬は逆。)

私は、もしかしたら上御倉古墳でも天然の風穴と同じような原理で風が発生していたのかもしれないと妄想しました。冷風穴は古墳入り口で、温風穴は円墳の頂上にあったりして。(玄室内部の天井はドーム状に高くなっているので、円墳頂上の盛り土の厚さは薄いはずで、見た目ではわからない程度の小さな隙間があって、それが温風穴の役割をはたしているのかも?)そして阿蘇は高地のため寒暖差も大きく、しかも手野は名水の里で地下には豊富な地下水が流れているので、石室内部は十分に冷やされ夏の外気と古墳内部の温度差は大きいはずで、気象条件によっては私が見た水蒸気の流れよりも大きな風が起こっていたかもしれない。その風を体感した昔の人々は、古墳を風折姫の棲む風穴として恐れたのかもしれない。なーんて🤭自然科学の知識の無い人間の勝手な妄想ですけどね。「そんなわけないだろ!石室内部で水蒸気が舞い上がる仕組みはこうだよ!」という古墳に詳しい方がいらっしゃったら是非教えてください💡

あとがき

最後に気になったことをひとつ。これまで上御倉古墳を「御田歌」で唄われる「風折姫の宇土」とみなして話を進めてきましたが、『阿蘇神社』から引用した文化年間の記述:手野の洞穴は深さ二間(約3.6m)で川もあり、牛馬が落ち込むので塞いだ、という内容はどうも古墳の描写とは規模感が違うように感じられるので、もしかしたら手野には古墳とは別に天然の「風穴」があったのかもしれません。江戸時代に塞がれて今となっては何処にあるのか分からない、地下水の川が眼下に見える程の壮大な風穴が。それはそれで興味深く面白いですよね!

阿蘇谷の端にある手野集落は、古代の伝説あり、湧水あり、そして風にまつわる伝承がたくさんあって、ナウシカの「風の谷」のように魅力的なところだな、と感じました✨皆様も阿蘇に観光に来られる機会があれば、阿蘇山と阿蘇神社に加えて、是非手野の国造神社周辺も散策してみられてくださいね🍃

次回の阿蘇散歩⑧は、肥後一の宮•阿蘇神社の散策レポートを予定しております。投稿までに時間がかかるかもしれませんが、次回も宜しくお願いします❣️

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献•WEBサイト】
•阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社 2007年
•清水長正•澤田結基編 『日本の風穴』古今書院 2015年
•玉名市ホームページ
•AsoPedia

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