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今年もありがとうございました@六嘉湧水群&甲斐神社🎍

こんばんは。今年の年末は風邪をひいてしまった(熱出なかったけど多分インフル)上に仕事を休めない事情があって無理して出勤したため体調が悪く、今年最後のnote投稿はやめておこうかと思っていたのですが、結局大晦日ギリギリに投稿する運びになりました。体調不良のためずっと散歩もできてなかったので、いい空気を吸って可愛い渡り鳥にも会って気分を回復したいと、今日の午後上益城郡嘉島町の六嘉地区を甲斐神社まで散歩してきた記事になります&年明けにアップ予定の肥後国衆一揆の本丸記事のプロローグにもなっております。年の瀬迫るギリギリのタイミングでのアップですみません💦年明けの空いた時間にでも読んで頂ければ嬉しいです🙇‍♀️(3200字)

甲斐神社の場所はここ!
青線が今回歩いたルートです👟

嘉島町湧水公園(天然プール)の🅿️に車を停めて、甲斐宗運•宗立親子を祀る甲斐神社(足手荒神)まで歩きました🏃‍♀️因みに今回は行きませんでしたが、県道226を挟んだ東側には何度か記事で取り上げた大好きな浮島神社があります。嘉島町は湧水豊かな美しい町です。浮島神社の記事はこちらから↓

それでは早速天然プールから散策スタートです👟

天然プール

湧水を利用したその名も「天然プール」

湧水のプールなんて贅沢ですよね!夏は水遊びの子供達でいっぱいになるんですよ🛟昔はこんな綺麗なプールサイドはなかったような気がしますが、私も小さい頃両親に連れてきて貰いました。真夏でも湧水の冷たさに長く浸かっていられなかった思い出があります😅

プールサイドの奥のエリアにはたくさんの渡り鳥達🦆💓
奥に見える山は飯田山

それではここから、趣のある古い集落の中を歩いて甲斐神社に向かいます。途中たくさんの御堂や祠を目にしながら、細くて曲がりくねった古い道を進んでいると、絵のように美しい景色に遭遇しましたよ↓

六嘉湧水群

画像中央の『平成の名水100選』の案内板によると、六嘉湧水群は阿蘇外輪山西麓の台地周辺に大量に貯留された地下水が流出しているもので、この場所は古くから洗い場として利用されており、六嘉湧水群を代表する湧水スポットだそうです。昔から生活用水として使われてきたであろうことが偲ばれる美しい風景を以下もう少し載せますね↓

透明度抜群の美しい湧水✨
湧水に降りる趣深い石段と水神様のおわす風景
画面奥には立派なお寺さんがありました。

この美しい湧水スポットから300mほど歩いた先に、甲斐神社はあります。

甲斐神社(足手荒神)

西側の鳥居 扁額は『足手荒神』
東側の鳥居 扁額は『甲斐神社』
拝殿で懇ろにお詣りします。
「今日は素敵な時間をありがとうございました。いい記事書けるように頑張ります。」

さて、何故甲斐氏を祀る甲斐神社が、手足の神様•足手荒神となったのか。その理由は境内の由来書に書かれております。↓

例によって由緒書の一部を以下に引用します。

天正の頃、佐々成政隈本城主として肥後の国に封ぜられ、苛政以って領民の憤激をかう。甲斐宗立菊池武国等の諸将と相計り一揆を起こし隈本城を攻む。豊臣秀吉、戦局容易ならざるを憂慮 肥後隣国の諸将に救援をたのむ。立花、島津等来り戦う。宗立の軍よく戦い千葉城まで迫る。宗立の軍正面には佐々、後方には立花の軍を相手として一歩も引かず、戦局有利に展開。(中略)今一歩と云うところで部下の裏切りにより戦局一変、壮図空しく崩れ全身深傷を受け身を以て逃る。追手の軍の追及厳しく遂に難を避けこの地の里人(現斎主の祖先)に助けを求む。里人敗戦の将を隠す後難をも恐れず、身を以て匿い手厚き看病をなす。宗立その手厚きもてなしを喜び、己の亡き後、魂魄この世に留まり子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであらうとの遺言を残し遂に当に眠る。斎主の祖父祠を建ててその霊を弔う。

其後近郷近在の老若男女陸続きとして来り、信仰するものその数を知らず。ご利益を受け全快せし諸人の寄進による手型、足型、はてはギブス、コルセット、松葉杖と正に社殿を埋め、毎月一日、十五日の御命日には線香の煙終日絶えず、遠くは外国又九州一円、さては遠県よりの参詣者後を絶たず正に手足の守り神として年々神威の発揚益々盛んとなる。

例によって補足説明致します💡天正15年(1587)、豊臣秀吉は島津氏征伐を目的として九州に出兵し、九州を平定します。その後、秀吉により佐々成政が肥後の国主に任命されます。(居城は現熊本城近くにあった中世隈本城)しかし、同年7月には成政の検地に反対して肥後の国人達が蜂起します。(肥後国衆一揆)由来書の甲斐宗立さんとは、戦国時代阿蘇氏の黄金時代を支えた甲斐宗運の子息です。この時宗運はすでにこの世になく、宗立さんが一揆に参加しますが惜しくも敗れてこの地で亡くなったとされます。

肥後国衆一揆は旧菊池氏と旧阿蘇氏の家臣だった国衆達が中心となって起こされたと言われます。一揆の口火を切ったのは旧菊池家重臣の隈部親永。菊池の隈府城に立て籠もった隈部親永は佐々成政軍に攻められ、隈府城落城後は山鹿の息子親泰の居城•城村城に退きました。佐々成政が山鹿攻めで隈本城を不在にしている隙に、甲斐氏をはじめとする旧阿蘇家家臣団が隈本城を攻めました。由来書にもありましたが、一部の裏切りによって隈本城攻めは失敗に終わります。詳しいことは分かってないようなのですが、一説には、豊臣秀吉の九州平定後に隈本城に人質として入っていた阿蘇大宮司家当主の惟光(5歳)惟善(3歳)兄弟の身を案じての裏切りだったと伝える文献もあるようです。隈本城攻めの中心は阿蘇氏の家臣団だったので、当然人質に取られている幼少の阿蘇家当主の救出も兼ねた攻撃だったと思われますが、逆に人質を盾に取られてしまったのでしょうか。また、甲斐神社のある嘉島町は隈本城と甲斐氏の居城•御船城を直線で結んだ中間地点なので、宗立さんは御船城まで辿り着けずにこの地で力尽きてしまったのでしょう😢肥後国衆一揆については年明けの田中城の散策記事でもう少し詳しくまとめるつもりでいます。

こちらの神社では手型•足型を奉納するんですね
奉納されたたくさんの手型•足型

あとがきとご挨拶

最近知ったことですが、今は亡き私の父方の祖母の家は嘉島町が本拠地だそうで、苗字も甲斐氏に由来するのではないかと推測される苗字です。家紋は阿蘇家と同じ違い鷹の羽の紋であることから、昔は阿蘇家•甲斐家に関わりがあったのかもしれないと感じています。(家系図を調べたとかでは全然ないので妄想の域をでませんが、阿蘇家•甲斐家の家臣で、名前の一部と家紋の使用許可を貰ったとか?)嘉島町を含む益城郡は阿蘇氏の領地でした。阿蘇家重臣の甲斐氏の居城は嘉島町に隣接する御船町です。妄想通りだとすれば、ご先祖様は国衆一揆の際も甲斐氏に従って隈本城攻めに参加した可能性もなきにしもあらずと妄想しました。浮島神社が昔から大好きなのも、4分の1の先祖の血がそうさせるのかもしれないなんて思った年末でした。

というわけで(どういうわけだ)前述の通り、年明けは肥後国衆一揆の舞台、田中城の散策記事から初める予定です。私の先祖にも関係あるかもしれない(?)阿蘇氏のシリーズ記事も完了させずじまいで年末を迎えてしまいましたが、今は頭の中が戦国時代〜江戸初期なので、来年はその時代の史跡の記事を一通り書き終えてから中世に戻って、南北朝時代の阿蘇氏はじめ、南北朝の史跡巡りシリーズを進められたらいいなと考えております🙇‍♀️

それでは今年も記事を読んで下さり&励ましのコメントもたくさんいただきありがとうございました〜🤗来年も宜しくお願い致します❣️

散策途中で出会ったハンサムな猫ちゃん

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
良いお年をお迎え下さい🎍

【参考文献】
•荒木栄司『肥後国衆一揆』熊本出版文化会館2012
•國武慶旭『天正時代と和仁一族』熊本日日新聞情報文化センター 平成5年

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