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六殿神社楼門のライトアップに中世名和氏を偲ぶ🍁

こんにちは。11月末に『くまもと花博2024』の一環として実施されていた六殿神社(熊本市南区)のライトアップに行ってきました。光に照らし出された国指定重要文化財の朱塗りの楼門と紅葉が幻想的な雰囲気を醸し出していて、感動ものの美しさでしたので写真でシェアさせて頂きます✨しかしそれだけでは一般的なSNS投稿と同じになってしまい面白くないので、今回は写真と並行して、朱塗りの楼門を建築した中世名和氏について書きたいと思います💡(歴史は興味ないよ、という方は写真とキャプションだけでも是非見て行って下さい!)名和氏は熊本の中世史における有力氏族なのですが、史料があまり残ってないこともあり、菊池氏、阿蘇氏、相良氏等と比べるとちょっと影が薄い印象があるんですよね。しかし名和氏はこの楼門をはじめ、肥後の中世史を彩ってきたことを証明する数々の文化財を残していますので、名和氏関連の文化財を挙げながら名和氏の実績を偲びたいと思います。(5500字)

六殿神社の場所はここ!後に触れますので宇土市と八代市のロケーションも覚えておいて下さいね

まずは早速、神社を訪れる参拝者を出迎えてくれる美しい楼門を堪能致しましょう💓

石段を登ると目に入る、石垣の上に佇む朱塗りの楼門。
夜はまた雰囲気が違いますね〜❤️とっても幻想的✨
黄色と赤に色付いたもみじと朱塗りの楼門とのコントラストがえも云われぬ美しさ🍁
古い石鳥居→朱塗りの楼門→拝殿と一直線に並ぶ参道には、地元の方々が作成した竹燈籠が並びます。
参拝者を出迎える威風堂々とした楼門の姿。私はいつも下から見上げた時の、屋根の反り具合と繊細な木割、そして茅葺の刈り込みの美しさに見惚れるんですよね😍都の名だたる神社仏閣の楼門と比べれば小さいですが、このコンパクトで細密なデザインに、現代日本のものづくりに通ずる美しさを感じます。
楼門をくぐって境内側から撮った写真。こちら側から観る楼門は優美さが増し、また趣が異なる美しさ🤩💫
楼門脇のもみじと境内に飾られた和傘が彩を添え、参拝者を異空間へと誘います。

美しい楼門のライトアップ、楽しんで頂けたことと思います💡巧みな手法と複雑な装飾で室町時代の特徴をよく顕しているとされるこの楼門は、天文18年(1549)に宇土城主•名和伯蓍守顕忠(あきただ)が建立したと伝えられています。まだ郷土の歴史を全く知らなかった3年前、六殿神社を初めて参拝した私は現地解説板を読んで「名和氏って誰?熊本の地名じゃなさそうだけど。」なんて思ったものです。それもそのはず、肥後の有力国人の一角として中世史を彩った名和氏は、南北朝時代に伯耆国名和荘(現鳥取県)からやってきた氏族でした。私には名和氏は数奇な運命を辿った流転の一族といったイメージがあり、肥後の中世史においては特異な存在だと感じています。それでは以下、中世名和氏について概観していきたいと思います☝️

肥後の名和氏の祖は、『太平記』でも有名な名和長年さんです。名和長年は隠岐を脱出した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、南朝の忠臣として活躍したのは周知の通りですが、その恩賞として長男•義高に肥後八代荘の地頭職が与えられました。そして祖父長年、義父義高が北朝軍との戦いで討死後、当主を継いだ名和顕興(あきおき)が形勢不利となった伯耆国を出て、一族郎党を率いて八代に下向したのが肥後における名和氏のはじまりです💡その後、八代の古麓城を本拠とした名和顕興は菊池氏と共に南朝の征西将軍宮を支えました。南北朝時代の名和氏については北朝方の史料や他家の文書に時折登場する程度で、文化財などもあまり残っておらず実態がよくわからないのが常々残念に思っているのですが、名和氏が確かに八代で南朝方として活躍していたことを示す出土文化財を以下にご紹介したいと思います。↓

平成13年3月6日、九州新幹線鹿児島八代間建設工事に伴う八代古麓城域の発掘調査で、左に「元中九年壬申二月十五日」右に「昌壽」と刻まれた五輪塔地輪が出土しました。「元中」は南朝方が用いた年号で、元中九年は西暦1392年、くしくも南北朝合一の年です。「昌壽」が誰なのかは定かではありませんが、八代古麓城を本拠にしていた名和氏が北朝優勢の中でも最後まで南朝方を貫き活躍していたことを証明するものだと思います。この発見はこれまで埋もれていた八代城(古麓城)に繋がる遺物として注目され、八代市光の森ミュージアムの特別展で展示されたそうです。
(※3年ほど前、八代市光の森ミュージアムに行った際見たような気がするので、今も常設展示されているのかもしれませんが記憶が曖昧💦興味がある方は光の森ミュージアムに問い合わせてみて下さい🙇‍♀️)

楼門脇のもみじの葉のアップ。色とりどりで綺麗🍁

さて、名和氏の八代城を最後の砦として持ち堪えていた九州南朝も1391年7月、幕府(北朝)が派遣した智将•今川了俊によって陥落し、肥後の南北朝騒乱は武家方(北朝)の勝利で幕を閉じました。しかし、今川了俊は名和氏•菊池氏をはじめとする南朝方の諸領主の降参を受け入れて本領を安堵する方針を取ったことから、肥後では南北朝時代に割拠していた諸領主がそのまま存続し戦国時代に突入することになります。

名和氏も引き続き国人領主として八代地方を支配していたのですが、転機が訪れたのは1503年、当時の名和家当主は名和顕忠の時。そう、後に六殿神社(当時は六殿宮)の楼門を建築することになる方です💡名和顕忠は人吉の相良氏と領土紛争を抱えており、この年にとうとう相良氏から八代を奪われ八代を追い出されてしまったのですが、翌年には宇土地域の領主として宇土城に入城することになります。詳細は長くなるので省きますが、宇土には元々在地領主の宇土氏がいたのですが、守護菊池氏から当主の宇土為光が成敗されたため宇土城主が不在になっていたところに、宇土為光の娘婿であった名和顕忠が入城することになったという経緯があるようです。

境内の拝殿までの参道にそって並べられた竹燈籠と和傘

六殿神社は木原山の麓に鎮座されているのですが、宇土庄に隣接する木原エリアも当時名和氏の領有範囲でした。そのため六殿宮は名和氏の祈願所的な位置付けで、手厚い保護を受けていたもよう。名和氏が出した起請文には「木原六殿宮」や「木原六殿大明神」が挙げられていることからも、名和氏が六殿宮を厚く信仰していたことが伺われますよね💡そういった経緯で、この立派な楼門を奉納したのでしょう✨

名和氏はその後、80年あまり宇土を治めましたが、名和氏にとって次の大きな転機が訪れるのが戦国末期、名和顕孝(あきたか)さんの時代です。この方が名和家最後の宇土城主となるのですが、まずは名和顕孝さんが関わった文化財をご紹介したいと思います。それは、歴史の教科書などで誰もが一度は目にしたことがある『 蒙古襲来絵詞 (もうこしゅうらいえことば) 』です。

蒙古襲来絵詞の有名な一シーン。画像はWikipediaより

肥後の御家人•竹崎季長の元寇での活躍を描いた蒙古襲来絵詞は、大矢野家から明治23年(1890)に皇室が買い上げ皇室財産となっていたものですが(2021年に国宝指定)、絵詞を天草五人衆の一人だった大矢野氏に伝えたのは、実は名和顕孝さんなんですね〜💡顕孝さんの娘が大矢野城主・大矢野種基と結婚することになったおり、その嫁入り道具としてこの絵詞を贈ったものが大矢野家に伝わったというわけです。名和氏が何故絵詞を所持していたかは不明ですが、絵詞の一節に元寇に出兵した大矢野氏の祖先、大矢野種保•種元兄弟が描かれていることから婚儀を機に大矢野家に贈ったものと推測されます。顕孝さんが後に国宝になる絵詞を大切に所持し、後世に伝えたのは特筆すべき実績だと思います。

それから私も今回初めて知ったのですが、この名和顕孝さん、なんと『まんが日本昔ばなし』になっているではないですか〜😳それも凄くいい話なんですよ、顕孝さんめっちゃいい人✨下記リンクのサイトからあらすじを瞬速で読めますので、是非ご一読ください❣️↓

この『孝行娘』は民話が元になっているようなんですが、火のないところに煙はたたずなので、実際の顕孝さんも誠実でいい殿様だったんだろうと想像します💭因みにこのお話が由来となっている宇土銘菓「小袖餅」、私もまだ食べたことないので今度宇土に行ったら買ってみようと思います😋

幻想的で美しい夜の拝殿。ユニークな天井画は雁を射る源為朝。源為朝は九州に追放されて阿蘇大宮司家の婿になり、木原城に住んだとの伝説があります。

さて、名和顕孝は名和家最後の宇土城主と書きましたが、彼が城主だった1587年、豊臣秀吉は島津氏征伐を目的として九州に出兵します。肥後の国人が次々に豊臣政権に降る中、島津氏に従っていた名和顕孝は宇土城に拠って秀吉軍に抵抗しました。後に降伏し開城したため助命されたものの、名和顕孝は妻子共に大阪へ移されることになります。その後、秀吉により佐々成政が肥後の国主に任命されたのですが、同年7月には成政の検地に反対して肥後の国人達が蜂起します。(肥後国衆一揆)一揆に参加した国人たちが徹底的に処罰される中、大阪にいた名和顕孝は処分を免れたものの、事もあろうに宇土に残っていた弟の名和顕輝が一揆に参加したようです。顕輝は一揆平定後薩摩に逃れましたが島津氏と戦い討死したと伝わっています。

最終的に、名和顕孝さんは筑前(福岡県)の小早川氏の家臣として替地を命じられ、肥後を去ることになったのでした。私は、名和氏は南北朝時代に遠く伯耆国(鳥取県)から肥後八代にやってきて、戦国時代に相良氏に八代を追われて宇土に移り、最後は秀吉の命で小早川氏の家臣となって宇土を出ることになり、気の毒な流転の一族のように感じていました。でも、これも今回初めて知ったのですが、その後の名和家は柳川藩士として存続し、明治になって時の当主・名和長恭さんが南北朝時代に活躍した名和長年さんと名和一族42人を祀る名和神社(鳥取県大山町名和)の宮司となったそうですよ💡そして現在の宮司さんも名和本家の方がお勤めのようです。紆余曲折あったけど、名和家が最終的に伯耆の地に戻れて本当に良かったと思います✨

名和氏の家紋•帆掛布の紋。伯耆も八代も宇土も海に面しており、海上でも活躍した氏族だったことが伺われます。
画像はWikipediaより

あとがき

今まで名和氏を中心に取り上げたことがなかったので、今回六殿神社の楼門のライトアップと合わせて中世名和氏の特集記事が書けてよかったです。今回名和氏の事を調べてみて、今まで知らなかったこともいろいろ分かって名和氏に親近感がわきました✨ここでひとつ、戦国時代の名和氏をさらに身近に感じることができる史料『家久君上京日記』をご紹介します。これは戦国時代の島津家当主•島津義久の弟・島津家久さんが天正3年(1575)29歳の時に山伏に扮して(多分)上京した旅日記なのですが、その中に2度も名和氏に関する記述があるんですよ💡1度目は家久さんが鹿児島の串木野を発って熊本の松橋に上陸した際、左手に「宇土殿」(名和顕孝)の城を見て通過するシーン、そして2度目はなんと京都でたまたま在京していた「宇土衆」(名和家の家臣たち)と合流して連歌を楽しんだという記述です。私は家久さんの日記のおかげで、臨場感を持って戦国時代の肥後を想像できてワクワクしました&京都に行き来し連歌を嗜む風流な名和家中の姿から、都との繋がりが深かっただろう名和氏だから六殿神社の雅な楼門を造れたのかもしれないと想像しました。

そんな『中務大輔家久公御上京日記』を分かりやすく解説したSaburoさんの記事を紹介させていただきます!前編で宇土城が、後編で在京していた宇土衆の記述が出てきます。肥後通過時の記述では甲斐氏、城氏などの国衆の居城や山鹿温泉も登場しますよ💡もちろん他にも織田信長や明智光秀などの有名人が登場して、人となりがうかがえる描写が面白いです。また日記全体を通して当時の旅の様子や風俗を知ることができ、全てが興味深く面白いので、是非読んでみられてください❣️

最後に、六殿神社は私の最も好きな神社のひとつで、これまでも2回ほど記事で取り上げています。
(私の歴代記事の中でもビュー数が上位にランクインしている記事です。最後にリンクを載せてますので未読の方は是非。)六殿神社はそんなに大きくはないのですが、雅を詰め込んだ箱庭のような美しさがあります。そして何より境内の空気の清浄感が際立っていて、いつ訪れてもいい気で満たされている感じがします。もし近くを訪れられた際は是非立ち寄って参拝し、深呼吸してみて下さい。スッキリクリアな気分になれること請け合いです🍃高い確率で猫様方に会えるのも癒されポイントですよ❣️

以前日中に訪れた際の、楼門前で寛ぐ六殿神社の猫様💗

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献•HP】
•『新宇土市史 通史編第二巻 中世•近世』宇土市 平成19年
•『熊本県文化財報告第227集 古麓城跡 九州新幹線新八代•西鹿児島間建設工事に伴う埋蔵文化財調査』熊本県教育委員会 2005年
•宇土市デジタルミュージアム 第一回「中世の宇土城主・宇土氏と名和氏」
•熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト
大矢野氏と大矢野城跡」
•六殿神社HP
•名和神社HP

アクセス情報はこちらから↓

過去の六殿神社の記事はこちら↓


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