中世阿蘇氏の本拠地🪶 山都町歴史さんぽ② 【岩尾城跡】
こんにちは。今回は山都町散策レポートの2回目です。今回は1回目でご紹介した通潤橋の北側の高台に位置する、中世阿蘇氏の居城•岩尾城跡をご紹介します。岩尾城跡は隣接する通潤橋と比べて知名度は低く、散策する人も少ない印象です。(実のところ私も、通潤橋の隣が阿蘇氏の山城だったことを最近まで知りませんでした💦)本記事で少しでも岩尾城跡の知名度が上がって、通潤橋と併せて散策される方が増えたら嬉しく思います♪(7200字💦)
阿蘇神社の大宮司家の本拠地がなぜ阿蘇市から離れた上益城郡山都町にあるの?と疑問に思われる方もいらっしゃると思いますが、例によって歴史解説は散策中に挿入していきたいと思います💡それでは早速、行ってみましょう🏃♀️
岩尾城跡
ここで例によって歴史解説を挟みます💡案内板にある通り、阿蘇氏が鎌倉時代に阿蘇地域から山都町に本拠を移したのは、岩尾城に隣接する居館「浜の館」(後述)の発掘調査により明らかとなっていますが、その後の南北朝•室町時代にも一貫して阿蘇家当主の本拠地として機能し続けたかどうかは定かではありません。というのも、中世の阿蘇氏の領地は肥後の広範囲に渡っており、各地に拠点を持っていたと考えられるからです。更に、南北朝以降の動乱期には阿蘇氏は南朝方•北朝方に分裂し、宗家と庶子間で対立したり、南北それぞれが擁立する大宮司が並立し対立したりしていて、一族間で各拠点を奪ったり奪われたりしていたので、本拠地もそれに伴い一貫していなかったのではないかと推測されます。以下に、中世阿蘇氏の領地略図を示します。↓(黄枠内。おおざっぱなので若干の間違いがあると思います💦)
なので、本記事も案内板の記述「文献史料での初見は天文21年(1552)である。」との内容に沿って、山都町の「浜の館」が確実に機能していたことが分かっている戦国時代の阿蘇氏当主、惟豊•惟将•惟種•惟光にスポットライトをあてつつ、話を進めて行きたいと思います。実際に岩尾城並びに浜の館の周辺には、惟豊さんと惟種さんのお墓(宝篋印塔)が残っており、綺麗に保存されていますので、最後にお墓参りもレポートしたいと思います。
※南北朝時代の阿蘇氏の活躍については「九州の南北朝シリーズ•山都町編(仮題)」で詳述する予定です。
因みに阿蘇神社の大宮司であった阿蘇氏が、阿蘇社から遠く離れた山都町(旧矢部町)に本拠地を移した理由ですが、各文献には北条氏の圧力、この地域の経済力など様々な説が書かれていますが、やはり一番は広大な領地をはじめ各方面へのアクセスの良さや、戦乱の際は攻めるに難く守るに易いという地政学上の理由が大きいのではないかと推測します。因みに阿蘇社の大宮司が本社から遠く離れてしまって、祭祀の執行等は大丈夫なの?と思われるかもしれませんが、中世の阿蘇大宮司の場合、一部の大祭を除いて阿蘇社の日常祭祀は社家•神人に任せていたそうです。中世の阿蘇氏は武家領主としての要素が強かったのでしょうね。このような分業により本拠を山都町(矢部)に移すことが可能だったと考えられています。
それでは散策を先に進めましょう👟
それでは本丸跡に登りましょう👟
山都町郷土史伝承会のサイトによると、こちらの「城山神社」は、通称「若宮さん」と呼ばれおり、通潤橋を架橋した布田保之助さんの父、布田市平次さんが岩尾城に若宮神社を勧請し、阿蘇家代々の霊を祭られたのが始まりだそうです。榊も比較的新鮮で、近くに焚き火の跡もあったので、今でも地元の方々に大切にされているのがわかります。
さて、懇ろにお参りしたあと、社殿の周りを一周していた時のことです。社殿から「カタッ」と音がしたんですよ😳周りには私1人しかいなかったのでちょっとビクッとしてしまいましたが、これは先人達からの合図かもしれないと感じました。因みに無人のお堂でカタッと音がするのを経験したのは1回ではないんですよ。そしてそんな時は決まって周りには誰もいない時なんですよね。無人の小さなお堂やお宮は古い木造ですし、たまたま木材がズレ落ちただけかもしれませんが、先人達の歓迎の?合図かもしれないと思ったら楽しいではありませんか💓(いつも記事を読んで下さっている皆様におかれましては、こいつまた変なこといいよるわ、と思われるかもしれませんが笑)
因みに、途中の道標には「本丸展望所」とありましたが、残念ながら木が生い茂っていて本丸からの展望は望めませんでした。
それでは本丸を降りて散策を続けましょう🏃♀️
確証はありませんが、先ほどの岩尾城復元図からするとここが三の丸跡と思われます。ここからは阿蘇氏の居館•浜の館跡がよく見えますので、ここで浜の館と戦国期の大宮司さん達のストーリーをご紹介しますね!
浜の館
戦国期の阿蘇家当主リレー、まずは名将•甲斐宗運を得て阿蘇氏の最盛期を築いた阿蘇惟豊さん(1493-1559)。在任中は外部勢力の圧力や阿蘇氏の内紛で終始動乱が激しかった時期でしたが、宗運との名コンビで乗り切り勢力を拡大、官位も従二位まで上り詰めました。
惟豊さんの次に当主を継いだのは惟将さん。在任中は豊後の大友宗麟が耳川合戦で島津氏に大敗し勢力を失い(阿蘇氏は大友氏の支援を受けていた)、北から龍造寺氏、南から島津氏の圧力が強まりつつあった大変な時期でしたが、阿蘇惟将の下でも甲斐宗運が活躍し、島津氏についた相良義陽を響ヶ原合戦で破るなどしました。
※阿蘇氏と相良氏の響ヶ原合戦について取り上げた、響ヶ原古戦場のレポート記事はこちら↓
ところがこの後、島津氏の北上の圧力がますます強まる中で惟将、そのあとを継いだ弟の惟種、そして甲斐宗運が相次いで死去します。風雲急を告げる中、阿蘇家当主を継いだのはわずか3歳の阿蘇惟光さん。甲斐宗運亡き後、幼君をいただいた阿蘇家の舵取りは困難を極めます。天正13年(1585)潤8月、島津軍が阿蘇領内に侵攻。忠臣達の判断で阿蘇大宮司母子は浜の館を脱出し、奥地の目丸山中に落ちのびていきました。江戸時代に書かれた伝承記事『拾集昔語』によると、その際、阿蘇家の宝物を「浜の御所人知らざる穴蔵有之候に隠置…」(浜の館の穴蔵に隠し置いた)とあります。こうして浜の館は戦国時代末期に終焉を迎え、「浜の館」の所在地はその後の時代の流れの中で忘れ去られていったのでした。
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時代は下って昭和49年(1974)、矢部高校全面改築を機に県文化課が発掘調査を実施しました。地元の古老たちの伝承に「浜の館という阿蘇大宮司の館が矢部高校のところにあって、金の鶏がトキを告げていた」というものがあり、矢部高校は「浜の館」の有力な比定地と考えられていたからです。
しかし「浜の館」を立証できるような宝物類は出土せず、虚しく迎えた調査最終日、庭園跡の円形の集石部2箇所が発掘調査主任の目に止まります。
長年培った勘により「何かある」と感じた調査主任が調査員を呼び戻し、表面の石を取り除き排土を開始すると、まず最初に出土した『三彩牡丹文瓶』の緑釉が人々の目を釘付けにします。その後2つの穴からは木箱に収められた21点の阿蘇氏の宝物が次々と出土しました。(黄金延べ板、玻璃製坏、白磁置物、三彩鳥型水注、染付牡丹唐草文瓶、青磁盒子など。中国明時代の輸入品多数。国指定重要文化財)これこそ阿蘇惟光達が天正13年に浜の館を退去した際に「人に知られざる穴蔵に隠した宝物」だと考えられています。
こうして阿蘇家の宝物は実に380年ぶりにこの世に姿を表し、浜の館の全貌が明らかにされたのでした。
現在、矢部高校の校舎に囲まれた一角に、浜の館の礎石の一部が保存展示されていると知って矢部高校の近くにも行ってみたのですが、部外者が気軽に校内に立ち入れる雰囲気ではなかったので礎石の見学は出来ませんでした💦なので、以下には矢部高校周辺をうろついた際の写真を掲載します。校内の礎石は見れなかったものの、周辺は往時の浜の館を彷彿とさせるような雰囲気が残っていましたよ💡
それではこれより惟豊さんと惟種さんのお墓参りのレポートに移ります。惟豊さんと惟種さんのお墓は少し離れているので別々にご紹介しますね。
阿蘇惟豊公墓所
名将甲斐宗運を得て阿蘇家の最盛期を築いた阿蘇惟豊さんのお墓は岩尾城を眺望できる高台にあります。通潤橋の西側を通る県道180号から少し中に入った場所に綺麗に管理保存されていますので行ってみましょう。
当時は気づかなかったのですが、写真で確認すると塔身部分は明らかに新しそうなので、案内板が書かれた後に欠損していた塔身を新しく造ったんだと思われます。
因みにこちらの御廟でも気付いたら凄い強風が吹いていて、この大杉の枝もワンワンザワザワ鳴っててちょっと怖かったですが、いつものことなので勝手に先人からの歓迎のしるしだと考え、無事お墓参りを終えました。更に因みにですが、先人のお墓や先人が祀られている神社を訪れた際、①強風が吹く②黒蝶が顔や頭の上を舞うという現象がよくあります(私の場合)。だからなんだよ、偶然だろって言われそうですが、私は先人たちの歓迎の印だと勝手に思ってますけどね✨
阿蘇惟種公墓所
阿蘇惟種さんのお墓は浜の館の東側の小高い丘の上にあり、「おたっちょさん」の愛称で親しまれています。
※「おたっちょさん」は、「御館様」がなまったものという説があります。
確かに「前大宮司宇治惟種神儀位」「天正12年甲申8月13日」と刻まれた文字がはっきりわかります。よく綺麗に残ってますね〜✨そして短命だった惟種さんの次は惟種さんの子息•惟光さんへと当主のバトンが渡るのですが、その後の話は次項で。
因みにこちらでは特に強風も吹かず、黒蝶も現れず、ただただ新緑が美しいお墓参りでした🍃更に因みにですが、こちらのお墓の側にも立派な杉の木がそびえ立っていましたよ🌲熊本の昔の方のお墓の脇には高い確率で杉や楠の巨木が墓木として存在しますが、皆様の地元でもそうでしょうか?
目丸山中に落ちのびた阿蘇惟光のその後(あとがきにかえて)
天正13年(1585)島津軍の阿蘇領内侵攻にともない、浜の館を捨てて目丸山中に逃れた阿蘇大宮司母子(前大宮司夫人と当主惟光さんと弟の惟善さん)は天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定までの2年間、目丸の里で隠れて過ごすことになります。その時大宮司母子を密かにかくまった山崎家には、阿蘇家からお礼に贈られたという茶入、惟光さんの鎧、琵琶、夫人の手鏡などの品々が代々伝えられています。また、目丸の里では惟光さん達を守るために村人全員が身に付けた棒術や薙刀が、郷土芸能の「目丸の棒踊り」という形で今に伝わっているそうです。
さて島津氏が豊臣秀吉に降伏し、九州平定が成ったあとの阿蘇家の動きははっきり分かっていないようですが、阿蘇家は豊臣政権への対応が遅れて不利な状況に陥ったようです。私が感じたところでは、恐らく阿蘇氏は肥後を代表する武家で元々秀吉から警戒されていて、にも関わらず挨拶が遅れて秀吉の心証を害したんだと思います。結果、当主である阿蘇惟光(当時6才)と弟の惟善自らが豊臣政権下の隈本城に人質に入るという事態になってしまいます。時代の変わり目に敏感に反応し、上手く立ち回れる有能な重臣が惟光さんの側にいたなら、と思わずにはいられません。秀吉の阿蘇氏に対する警戒感はその後も払拭されず、阿蘇惟光は秀吉から1592年に起こった梅北の乱への関与を疑われ、隈本城近郊の花岡山にて自害させられてしまいました。享年12歳でした。矢部町史の記述をそのまま引用させて頂くと「幼少にして父を失い、戦乱の中に逃げまわり、また無実の罪で処刑されるという、まことに苦難に満ちた薄幸の生涯であった。(p.219)」この言葉につきます。私は惟光さんの死は郷土史上最大の悲劇だと感じています。
※秀吉の死後、肥後一国の領主となった加藤清正によって、存命であった弟の惟善さんが阿蘇社の神主家としてのみ再興を認められたため、阿蘇大宮司家は現在まで存続しています。
先日の記事でも書いたのですが、今年の早春、熊本市内の古町を散策していた時、阿弥陀寺という寺院の墓地で偶然惟光さんのお墓を見つけた時はちょっと泣きそうになりました。惟光さんのお墓が何故熊本市の旧熊本城下にあるのかまだ調べきれていないのですが、近いうちに熊本城下町散策レポートとともに記事にしたいと考えています。
次回の山都町歴史散歩③は、通潤橋近くの五老ヶ滝をレポート予定です。次回も宜しくお願いします❣️
【参考文献•Webサイト】
•矢部町史編さん委員会 矢部町史 昭和58年
•山都町ホームページ
•山都町郷土史伝承会ウェブサイト
•柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏』ー謎多き大宮司一族 戎光祥出版 2019年
•杉本尚雄『中世の神社と社領』吉川弘文館 1959
•阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社 2007年
•末吉俊一『阿蘇神社』(株)マインド H18.1.1
•熊本県公式観光サイト
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