学校は不要・必要?(社会教育経営論)
大学院で学ぶ「学習のデザイン」。今回は、刺激的なこのタイトルについて、考えてみます。
学校は義務?
「義務教育だから学校には行くべき」多くの大人はこういいます。
それに対する反論も昔からあります。例えば海外に目を向けると、アメリカではホーム・スクーリングが認められていて、学校が合わなかったエジソンなど、多くの偉人が存在します。
いじめ、不登校、学級崩壊など、学校に行くことが辛いと感じている生徒はたくさんいます。2022年の統計を見ても数は増え続けていて、もうすでに学校に通わなければいけない、という制度が破綻しています。
不登校である中学生が登場人物である小説「かがみの弧城」は、多くの人の共感を集めました。物語のなかで、不登校者同士の交流や、フリースクールの存在など、学校以外の場の大切さを考えさせられる一冊です。
ホリエモンは「高校なんて行く必要がない」と言っています。
少なくともここで言えることは、学べる場所は学校以外に選択肢がないということではなく、学校が最高の学びの場であるかどうかは、人それぞれ違うということです。
脱学校論
イワン・イリッチという社会学者は、いまのような社会問題が顕在化する以前の1971年すでに、この「脱学校論」をかかげています。
読んでみたのですが昔の本なので…難しかった。なのでズルいですが、授業で教わった要点をここでは紹介します。
教師という絶対的な力を持った立場が生徒を支配している、というのが学校という場の問題であることを指摘しています。
学校が、閉じられた場であるべきか開かれた場であるべきか、については以前の教育学基礎理論でも取り上げてみました。
いまの時代の空気は、オープン・多様性・対等で公平、といったキーワードがあげられますが、イワン・イリッチはそれとは逆の、閉鎖的で支配的な学校に対して本来の学びを失わせていると批判しています。
本来の学びとは、以前紹介したメリトクラシーのようなただ能力を高めるためだけの学びではなく、
学習者が自発的に学び、社会とつながることだと考えます。
でも、1971年から50年以上経ったいまでも、この構造の課題はあんまり変わっていないように見えます。それは教育というものが「過去の知識を教える」という、保守的な思想がベースにあるからではないかと考えます。
学校教育を補う社会教育
じゃあ学校は不要なのか?と問われると、0-1で決められる話ではないと思います。学校が役立っている面もあるし、歴史的には近代まで学ぶ環境がなく、その問題意識からできたのが学校だからです。
ただし、学校だけですべてまかなう考え方には限界があります。
時代の変化は早いから、常に学び続けないといけません。学校で教わるITの知識は、社会ではすぐに古びてあまり役には立たないでしょう。それ以外にも最初にあげた数多くの社会問題を学校は抱えています。
そこで、学校以外での学びの場の選択肢を持てることが大事です。日本では教育領域を大きく3つに類型化しています。
フォーマル教育(いわゆる学校機関)
ノンフォーマル教育(学習塾・習い事・専門学校・公開講座など)
インフォーマル教育(研修・家庭教育・カフェ談義など)
このなかで社会教育は、フォーマルとインフォーマルの間にあるノンフォーマルに位置付けられます。自由な学びではあるけど、組織的な活動であることがインフォーマルとの違いです。
学校に行かない人が受けられる学びの場であったり、学校の内に閉じない学びの機会など、社会教育士ができることがここにあります。
学んだこと
僕は正直なところ、どのようにすれば社会教育が広まるのか、社会教育が広まると生涯学習に対する意識や行動がどう変わるのか、について具体的な成功イメージを今でも持ててはいません。
その一方で、いまの学びの環境には多くの課題があります。今回取り上げた学校教育もその1つですし、学校を卒業したあと学ばなくなる、ということも社会課題です。
そういった課題から、何が求められているかを感じ取ることは、社会教育士の役割の1つではないかと考えるようになりました。
今日はここまでです。