学校は「宗教」である。ライマーの本を読む
私は教育学科に所属しているが、そのことを誰かに伝えると「将来は先生になるの?」と聞き返される。
人々は、「教育」という言葉を耳にしたとき「学校」を真っ先に思い浮かべているようである。
教育の定義はいろいろあるにしても、誰かが誰かを良いと思っている方へ導こうと学習を促すことを総じて教育と呼ぶことが一般的であるのだから、
教育は学校以外での方がむしろ行われているし、人間として毎日自然に行われている行為である。
しかし、それでも我々が教育と聞けば「学校」を思い浮かべてしまう。
一体なぜだろう。
学校には強烈な力がある。それも、人々を「思い込ませる」影響力である。
例えば、成績が悪くなれば、学校に通うのをやめてしまえば、人としての生活が終わってしまうと勘違いするように。
校則という教典
こんな記事が最近注目を集めている。
体育祭の優勝チームは、競技成績だけではなく、日頃の態度も加味すべきであり、忘れ物や下着の色までも体育祭の採点の範囲にしようとしている学校についての記事である。
しかも、この提案をしたのは生徒自身だというから驚く。
学校は自らの自由を明らかに剥奪するようなルールでさえも、許容してしまう魔力を持っているし、生徒はそれに洗脳されていき、生徒同士で監視し合うようになる。
ライマーの本を読んでみる
ここで『学校は死んでいる』で有名な経済学者のエヴァレット・ライマーの本にある一説を見てみたい。
今日の我々にとって大きな脅威は、人間精神の支配が、世界的規模において独占される危険性である。
エヴァレット・ライマー『学校は死んでいる』1985年, p.31
ライマーは、私がこの記事で最初に指摘したような「学校が教育を独占している」という状況に強い問題意識を持っている。
そして、学校が様々な社会のルールを歪めた形で規定したり、学校のルールが歪んでいてもそれに子どもや指導者もが隷従してしまうことについて、憲法の信教の自由を引用しながら批判している。
つまり、学校というのは、宗教的な側面があり、世界中の人がこの「学校」という宗教に飲み込まれ、異常なルール(教典や道徳)を普及させられていると指摘したのである。
私もこの主張には強く共感している。
この誰も疑おうとしないような学校の宗教性を解きほぐしていくには、自らの思考が学校化されていることを自覚しながら、暮らし「脱学校」を目指していくべきではないだろうか。