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学校で「評価」は必要ないのか。〜「教育を受ける権利の保障」と「人材育成」は全く違う〜

例えば体育の授業において順位をつけるか否かで論争が生じることがある。この評価の必要性については、様々な意見があって当然だと思う。

学校で生徒に評価をしない方が良いという意見に対しては、多くの者による「社会に出れば、評価はつきもの」という反論がテンプレである。これも経済社会においては、今のところ評価なしには機能しないから一理はある。

しかしながら、学校制度は人材育成のためにあるのか、あるいは教育を受ける権利を保障するためにあるのか、という学校施設の設置目的がすっぽり抜け落ちているような気がしてならない。

教育を受ける権利の保障に評価は必要ない

少なくとも、義務教育及び大半の普通教育は本来、教育を受ける権利の保障を目的に設置されている。これは必ずしも「人材育成」を目的としていないことを意味するわけではないが、学習権の保障は「誰にでも広く開かれること」が原理原則である以上、一部の優れた人が優越感を得られる内容よりも誰もがストレスなく学べる環境が良いことは明らかだろう。

体育の例に戻れば、地域のラジオ体操に評価がないというような感覚に近い気もするが、公的に開かれた教育課程である以上は、ほとんどの普通教育において評価することは本来必要ない。むしろ、能力主義的に偏るあまり、ついていけない人や劣等感を感じて運動が嫌いになる人が出ている現状から見ても、学校は権利保障をしているとはとても言えない。

ただ、一方でこれらの立場は評価それ自体を否定するものではない。能力主義者たちが好むように、経済社会の中で大いに評価し合ったらよろしい(譲歩してだが)。ただし、評価をする必要がある理由が「社会に出れば、評価はついて回る」というものであるなら、経済社会に関係のない学びまで評価する正当性はない。したがって、学校で学生が好きで学んでいる自己満足の内容を就職活動で参考にするのはおかしいということである。

「人材育成」の学校からの分離

これらは経済社会に寄与する「人材」をどう育成するかという議論と通ずる。私も、私の研究する哲学者イヴァン・イリイチも、決して「人材」を育成しようとする試みを否定するつもりはない。ただ、 「人材育成」は教育を受ける権利を保障する学校制度から完全分離し、職業訓練所(あるいは専門学校でもよろしい)で行うべきである。イリイチは、職能・スキルの上達は学校で"無能教師"がやるには時間がかかるので、職業訓練所で短時間で一気にやった方がコスパも効率も良いと著書『脱学校の社会』の中で主張している。

現在の学校制度は、職業訓練(職業教育)の機能も、教育を受ける権利の保障の機能もどちらも兼ね備えようと努めている。しかし、これは効率とコスパがかなり悪い上に、ただ楽しくて学んでいるだけの内容や権利としての学習に「評価」を持ち込むことになってしまっている。

ただし、そのような「人材育成」を担う職業訓練所を運営するのが、あるいはカリキュラムを作成するのが、政府で良いのかという疑念は残る。

これから必要とされる能力・資質を備えた人材を政府主導の学校制度で育成できるのか、という市場原理主義的な問い

なぜなら、これから必要とされる能力・資質なるものは、エリートだからわかるというようなものではないからである。つまり、政府がこれからはこんな人材が必要と言ったところで、市場では全くそのような人が役立たないという例はあるのであり、人材育成事業すらも政府が担うべきではないという市場原理主義(リバタリアニズム)的な反論が成り立ち得ると思うのである。

人材育成と権利保障の役割分離

学校で学んだ内容を評価すると、学生が自由にストレスなく学べなくなるという主張は最もである。なぜなら、そもそも普通教育は経済で活躍する「人材育成」を目的に行われるものではなく、憲法上保障された教育を受ける権利を保障する一手段として、学校制度を介して行われているにすぎないからである。ただ、能力主義者たちが資本主義経済の発展のために人材を評価したいのなら、思う存分すればよい。それは全く否定していない。しかし、その評価は権利保障のための普通教育の場ではなく、職業訓練所や民間、自由市場の中で人材育成と評価をやればよい。

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