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堕落から始めること(坂口安吾 『堕落論』を読んで)

坂口安吾の『堕落論』は、戦後直後の1946年に発表され、天皇制への批判的な洞察も含めて、当時の日本国民に強い衝撃を与えた。

また、僕自身も『堕落論』を読んだ時に、自分が漠然と、丸裸にされた人間の姿、人間の本質と考えていたものを、彼流の「堕落」という概念で、見事に説明をしていたことに、衝撃を受けたのを覚えている。

特に、下記の一節が印象に残っている。

特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。

戦争が多くの悲惨をもたらすことには異論はない。
ただ一方で安吾は、戦中には多くの「美」があったことにも目を向ける。
戦中全ての特攻隊の若者は、戦前のその社会的立場を問わず、皆「英雄」であったし、けなげな心情で夫を戦地に送った未亡人たちにも、聖女のような美しさがあった。
戦中には「美しいものを美しいままで終わらせたい」という、人の美徳、人情のようなものが体現されていた。
このような心情は、古来より武士道の精神や赤穂浪士の物語のうちにも現れていると、安吾は指摘する。
つまり、誤解を恐れずに言うのであれば、天皇制という制度のもとで行われた戦争は、大義のために生を全うする美しき人間像を創出したのであり、戦争には一種の「美」が存在したのである。

私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。

上の引用で安吾は戦争の美しさを語るが、一方で最後に「そこに人間がなかった」とも語っている。
人間がない、つまり安吾流にいえば、戦争には「堕落」がなかったのだ。

では、堕落とはなんであろうか。
安吾自身が言うように、堕落自体は悪であり、常につまらぬものである。
しかし、堕落には人間の実相とも言うべきものが現れているという。

人間とは、本質的には「移ろうもの」である。
他方、美とは「瞬間的なもの」であり、永続的に美しい状態のものは、人間社会では実現し得ない。
美は「非人間的なもの」である。
特攻隊で英雄である瞬間よりも、夫を戦場に送り出した宿命の一瞬よりも、その後の人生の方が長いのである。
安吾がいうように、特攻隊の勇士が堕ちて闇屋となるところ、未亡人が胸に新たな面影を宿すところ、そこにはじめて人間が始まるのである。

堕落とは、本来「無」に近い「移ろい」としての人間の実相であり、それ自体は何ら目的も、固有性ももたないのでつまらぬものではあるが、ただそれこそが人間の本質なのである。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

このような「堕落」としての人間の実相は、実にニヒリスティックな結論のようにも思える。
だが、安吾はこのようにも語る。

だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。

人間は堕ちるから弱いのではなく「堕ちぬく」ことができないから弱いのだ。
この洞察に安吾の凄さがあると思う。
人間は結局堕ちぬくことができないから新たな天皇制を生み出さずにはいられなく、何らかの体制や制度、思想などに縋って生きていくしかない。
世界が完全に堕落しきった、ニヒリスティックな状態になることは、人間の弱さゆえにあり得ないのである。

ただし、安吾はこの堕落こそを出発点とすべきだと語る。
人間は堕ちる道を自分で堕ち切ることによって、はじめて自分自身を発見し、誰に与えられたものでもない、自分自身の信念、美徳を発見するであろう。
つまり、「堕落とは創造の母胎」なのである。

安吾の『堕落論』は、あらゆる物事を、あらゆる先入観や社会観念にとらわれず、自分自身の曇りなき眼で真っ正面から見つめてみようという、安吾の力強い洞察が生み出した作品と言えるだろう。










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