でらぼ

1991年生まれ。 成蹊大学文学部→早稲田大学大学院哲学コース→予備校勤務→エンジニ…

でらぼ

1991年生まれ。 成蹊大学文学部→早稲田大学大学院哲学コース→予備校勤務→エンジニア(現在)。 思想観強い陰キャ。表向きはごくごく普通の社会人。

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  • 思想

    自分の思想観みたいなものをとりとめもなく書いています〜。

  • 本の感想

    主に学生時代に読んだ本を再読して、感想とか書いています〜。客観性や正しさよりも、自分の感じ方を大切にしています。

最近の記事

数値化できるもの、数値化できないもの

○数値化できるもの <特徴> 一般性・普遍性がある。 論理的・理性的。 権威的・権力的。 再現性がある。パッケージ化できる。継承や伝達、共有が容易。 人生に固有性は与えない。 生存のための安全性が高い、必要性が高い。 社会的な共同体や個人を形成するために必要。 <例> ・テストの点に還元できる学校教育。 ・生産性とその対価としての賃金や報酬、つまり経済活動。 ・学歴・職業・収入・恋人や結婚の有無などの、社会的通念に基づくスペック。 ・数的に把握や処理できる諸科学。 ・何らか

    • 最近の思想観めも

      ○徹底的な被投性 まず、各個人は「徹底的な被投性」によって、環境や時代による制限を生まれながらに受けており、その中で可能なのは「制限的・選択的な自己実現」。その意味では人間は不平等。 ○有限と無限 多かれ少なかれどのような人間でも制限を受けているという意味では、人間存在は根本的には「有限」。 ただし人間は「無限」を志向できる。(宗教や学問、個人的妄想に至るまで、人間の思考能力は今ある現実を「超えて」思考している) ○根本感情としての悲しみ ゆえに常に満たされないという意識

      • 日本人のこころ「あはれ」

        「あはれ」という言葉は今日、日常的に使うことはあまりないにせよ、僕たち日本人は、その「あはれ」という言葉に含まれた「情感」といったものを、何となく感じ取り、共有することができる。 僕自身も「あはれ」という言葉に含まれた哀感・情感に深く共感するところがあり、大まかな理解になってしまうが、ここに日本人のこころ「あはれ」について調べたことを記したいと思う。 (内容としては、『日本美を哲学する』著 田中久文、を参考にさせていただきました) まず「あはれ」という言葉は、古典的用法の中

        • 堕落から始めること(坂口安吾 『堕落論』を読んで)

          坂口安吾の『堕落論』は、戦後直後の1946年に発表され、天皇制への批判的な洞察も含めて、当時の日本国民に強い衝撃を与えた。 また、僕自身も『堕落論』を読んだ時に、自分が漠然と、丸裸にされた人間の姿、人間の本質と考えていたものを、彼流の「堕落」という概念で、見事に説明をしていたことに、衝撃を受けたのを覚えている。 特に、下記の一節が印象に残っている。 戦争が多くの悲惨をもたらすことには異論はない。 ただ一方で安吾は、戦中には多くの「美」があったことにも目を向ける。 戦中全

        数値化できるもの、数値化できないもの

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        • 思想
          6本
        • 本の感想
          13本

        記事

          今日、哲学を語ることの無意味さはどこから来るのか?

          僕は大学、大学院と「哲学」を勉強してきた。 残念ながら、当初の研究者になるという希望は叶わなかったが、僕の中で哲学に向き合った日々は、非常に印象深い記憶として今も色濃く残っている。 ただ大学院から離れて数年経ち、日々社会人として生活している中で、なかなか哲学について語るような場面はないし、いざ当時のことを問われても、人前で哲学を語るのは、少々小っ恥ずかしい思いもするのである。 その小っ恥ずかしさの理由はいくつかあるのだが、その一つに今の自分が哲学とは全く無関係の仕事をし

          今日、哲学を語ることの無意味さはどこから来るのか?

          賢者より道化でありたい(山口昌男『道化的世界』を読んで)

          不真面目より真面目、混沌より論理、非理性より理性、偶然より必然、放蕩より禁欲、無意識より意識、不合理より合理、愚者より賢者、停滞より進歩、無価値より価値、非効率より効率、矛盾より一貫、無目的より目的、無意味より意味。 上記に思いつく限り記した対概念について、今日の僕たちの価値観から考えると、後者に挙げたものより前者の方が一般的にネガティブなもの、と捉えられることが多いと思う。 現代社会の勝者になるには、論理や理性的判断に優れ、偶然ではなく必然よる達成を目指し、真面目に己を

          賢者より道化でありたい(山口昌男『道化的世界』を読んで)

          反時代的であること(カート・ヴォネガット・ジュニア『プレイヤーピアノ』を読んで)

          いつの時代にも、その時代の「流れ」というものがある。 今で言えば、AIやITなどの「技術進化」がその時代の流れを作っており、僕たちの生活はその進化に応じて、より便利に、より効率的になっている。 しかし、大きな恩恵の影には、いつでも多くの敗者たちがいる。 今日でもAIの進化によって無くなる仕事や奪われる業務などが、様々な場面で議論されているが、そのような具体的な負の側面、のみならず機械の進化が人間に与える精神的な面での影響も議論されて然るべきであろう。 このような今日の

          反時代的であること(カート・ヴォネガット・ジュニア『プレイヤーピアノ』を読んで)

          この世界にちょっとだけお邪魔している宇宙人のていで過ごしてみる

          ふと、いつもの日常から距離をとってみたい、と思ったことはないだろうか? 僕はそういう気持ちの時はふらっと、スタート地点だけ決めて適当に、ぶらぶらと数時間散歩をしたりする。 土地柄、都内を散歩することも多く、そんな時には自分がとくに妙なテンションで散歩していることに気づく。 どんなテンションかというと「この世界にちょっとだけお邪魔している宇宙人」というふざけたていで、人びとを観察しているのである。 数時間も散歩していると、都内のオフィス街、歓楽街、行政区画や高級そうな店

          この世界にちょっとだけお邪魔している宇宙人のていで過ごしてみる

          人の物性(深沢七郎『楢山節考』を読んで)

          人は「物」ではない、それは当たり前のことだ。 「人を物のように扱う」と言う時、それはネガティブな言動や行動を指していることがほとんどだ。 しかし一方で、私たちは日々の生活の中で「物的」に扱われている場面も実際には多くあるのではないだろうか。 そんな人間の物的な側面を強く再認識させられる作品が、深沢七郎の『楢山節考』だ。 この作品は日本の民間伝承「姨捨伝説」をモチーフにしており、主人公辰平の住む貧しい村では、70歳になる年老いた父母を裏山へ捨てにいく「楢山まいり」という風習

          人の物性(深沢七郎『楢山節考』を読んで)

          世界の雑さ

          学生時代の今でも尊敬する友人があるところで「世界はわりと雑にできている」と言っていたことがあった。 そういう見方もあるよな、と思いつつも、何となく腹落ちするほどにはこの言葉の意味を理解してはいなかったのだが、最近この言葉が体感としてわかってきた。 自分もそうであるが基本的には人間みな、自分の人生のハンドルは自分で握っているつもりだし、自分の人生の主人公であると考えている。 それは事実そうだろう。 ただ実際には、自分の力や努力ではどうにもならない要因で、わりと大きく自分

          世界の雑さ

          現代人カフカ(カフカ『変身』を読んで)

          僕がカフカの『変身』最初に読んだのは大学生の頃で、その時の印象は、人間が急に虫になるなんてとても奇妙な話だし、なんでこんなこと思いつくんだろうな、とか思っていた。 ただ社会人になり、30歳を過ぎ、それなりに社会経験を積んだ今読んでみると、また違った印象を受ける。 まず虫に変身する前の主人公グレーゴル・ザムザの生活は、現代の一般的な平均男性の生活とそう変わらないのであり、社会人になった今の方が共感できる。 外交販売員として働く彼は、いわゆる社畜であり、日々ノルマと上司のパ

          現代人カフカ(カフカ『変身』を読んで)

          日常の非日常化(萩原朔太郎『猫町』を読んで)

          近所の歩き慣れた路地、毎日往復する通勤通学路、子供の頃から住み続ける地元の街並み。 こういった見慣れた風景はあまりにも見慣れすぎているが故に、普段は退屈なものだ。 しかし、こういった退屈な日常が、ふとした瞬間に、全くの別世界に、見慣れない非日常に、変貌しうるとしたらワクワクするのではないだろうか。。? 僕も時々そういう「日常の非日常化」を妄想するのであるが、どうやら卓越した詩人の眼には、こういった退屈な日常に、実際に非日常の世界が見えることがあるらしい。 詩人、萩原朔太郎

          日常の非日常化(萩原朔太郎『猫町』を読んで)

          悲しみの力(宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』を読んで)

          僕は本を読んで「泣く」ということはあまりないのだが、宮沢賢治の作品には泣かされた記憶があり、とくに『銀河鉄道の夜』とこの『グスコーブドリの伝記』では泣いた記憶がある。。 大抵のお涙頂戴の作品には拒否反応を示す僕だが、なぜか宮沢賢治の作品には純粋に涙を流してしまう時がある。なぜだろうか。。? 『銀河鉄道の夜』もそうだが、この『グスコーブドリの伝記』も基本は「悲しい」お話である。 あらすじを簡単に説明すると、父と母、そして妹と幸せに暮らしていた主人公グスコーブドリの住む地域

          悲しみの力(宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』を読んで)

          連帯感ではなく同体感(寺山修司『歌謡曲人間入門』を読んで)

          寺山修司の作品はあまり読んだことはないのだが『書を捨てよ、町へ出よう』など有名なものは読んだことがある。 その『書を捨てよ、町へ出よう』の最後に「歌謡曲人間入門」という章があるのだが、その章は非常に僕の印象に残っている。 今時、歌謡曲いわれてもとピンとはこないと思うし、私も歌謡曲自体にはピンとこない世代なのだが、その章で論じられている歌謡曲の特徴に対する考察がすごく面白い。 寺山修司は歌謡曲の特徴を「合唱できない歌」としている。 つまり、歌謡曲は合唱のように複数人での

          連帯感ではなく同体感(寺山修司『歌謡曲人間入門』を読んで)

          叡智よりも勇気を(太宰治『トカトントン』を読んで)

          太宰治の小説も何冊かは読んでいて、その中でもいくつか僕の心に残った作品があるのだが、その一つが『トカトントン』という短編である。 この短編はある青年が太宰本人に送ったとされる手紙の内容が小説になっている、いわゆる書簡体小説である。 実際にそのような手紙が送られたのかどうかはわからないが、モチーフになったものはあったしても、手紙の内容の多くの点は太宰の創作だろうと思う。 さて、この青年は手紙の中で太宰にある悩みを打ち明ける。 その悩みとは、仕事にしろ、恋愛にしろ、あるい

          叡智よりも勇気を(太宰治『トカトントン』を読んで)

          センシティブな青年時代に(サリンジャー 『ライ麦畑でつかまえて』を読んで)

          誰にもそういう時期があるのかどうかわからないが、僕はやけに自分が「センシティブ」だったな、という数年間があった。 恥ずかしながら僕のセンシティブ時代は中学や高校といった十代の少年時代ではなく、二十代前半とそれなりに大人になった時期に訪れてしまった。 その数年間はとにかく感受性が豊か、というか少々暴走気味でもあり、その時代にしか体験できなかったであろう色んな良い経験もしたのであるが、一方で繊細すぎて、少々苦しかった時代でもある。 そんな時期に読んだ小説で非常に印象に残って

          センシティブな青年時代に(サリンジャー 『ライ麦畑でつかまえて』を読んで)