人の物性(深沢七郎『楢山節考』を読んで)
人は「物」ではない、それは当たり前のことだ。
「人を物のように扱う」と言う時、それはネガティブな言動や行動を指していることがほとんどだ。
しかし一方で、私たちは日々の生活の中で「物的」に扱われている場面も実際には多くあるのではないだろうか。
そんな人間の物的な側面を強く再認識させられる作品が、深沢七郎の『楢山節考』だ。
この作品は日本の民間伝承「姨捨伝説」をモチーフにしており、主人公辰平の住む貧しい村では、70歳になる年老いた父母を裏山へ捨てにいく「楢山まいり」という風習があった。
辰平もその例に漏れず70歳になる実母おりんを、ある冬の晩に背負って楢山まいりに行き、おりんを山に捨てにいくのである。
『楢山節考』の世界、辰平の住む貧しい村の風習や習わしには、人間の生きる意味、希望、夢とかいった「思想的」な悩みは存在しないし、そのような悩みに対する示唆を与えてくれるわけでもない。
そうではなく、むしろ『楢山節考』を読むと、そういった悩みがセンシティブで表層的なものに感じられ、そのような悩み以前にある、ただただ「生きてあることそれ自体」をひたすらに感じるのである。
年老いた母を山に捨てるという行為は、現在の教養的な水準で考えれば、実に非人間的な行為で、ひどく人権を侵害している行為であろう。ただ一方で、辰平の住む村で生き延びていくためには、労働力として寄与できなくなった年寄りは捨てなければ、他の家族が生き延びてはいけないのである。
『楢山節考』の世界は、そのような人間の「物性」を極端に切り取った作品だと思うが、多かれ少なかれ私たちの現在の生活にも、このような掟は暗黙的に入り込んでいるように思う。
私たちの人生を大きく支配する収入などはその一例であり、ある人間のスキルや素養に対価を払う際には、少なからずその人を物的・価値的思考でみている。
私は日々、自分の価値を高め続けなかればならない。
もちろん、人間の生きる意味や、物に還元できない部分、そういったものは考えなければならないと思う。
ただ深沢七郎の『楢山節考』を読んでいると、まず「生きてあることそれ自体」が根本なことに改めて気付かされる。
そして人間の生は存外、精神的なものというよりは、「物に近い」形をとっているのではいか、とそう思うのである。