「なにかしなきゃ」と思ううちに「なにもできない人間」になっていた
追記:2021/10/04
表題の表現を統一しました。
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年が明けてから半月。
「最近、だらけているなぁ...」と感じるようになった。
「なにかをしなきゃ」
「みんなに置いて行かれないように、なにかできるようにならなきゃ」
気づけばそんな考えが常に頭の中のどこかに巣食っていたような気がする。
自分が1年浪人していることもあってか、そんなことを考え始めてから、いろんなことに対する焦燥感に拍車がかかっていたように思う。
先日、成人式を終え帰った後も、同級生のみんながすっかり大人になっているのを見て、ひとり何も成長できていない自分がどうしようもなく許せなくなり、泣きに泣いた。
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大学に入学してからそろそろ1年間になる。
「この1年間でなにか身につけられたことはあるか?」
そんな風に質問をされたら、僕はたちどころに何も口にすることはできなくなってしまうだろう。
なにもしていないから。
なにも身につけていないから。
なにかを口にする権利なんて、はなから僕にはない。
一年間、とても大学生とは思えないような怠惰な生活を送ってきた。
きっと一緒に成人式を迎えた友達は新年の抱負だとか、今年の目標を、大人になるための一つのけじめとして、心の中のどこかに、それが明瞭ではなくぼんやりしたものであったとしても、何かしらの目標を各々抱えているんだろう。
本来なら僕も、「そうじゃなきゃいけない」はずなのだ。
このnoteを書いている今も、そんなことばかりがぐるぐると僕の脳内を行き場もなくさまよっている。
今までに何回こんなことを繰り返してきただろうか。
わけもなく他人と比べ、周りと比べ、何もない、何もできない自分の無力さに打ちひしがれ、一人部屋に閉じこもって、「何もできない今日」を繰り返す。
そのたびに、「あぁ、僕はまだここなのか」と、何一つ変われない自分への嫌悪感に苛まれる。
「ここ」から抜け出したいと、切に願う。
何もできないままの自分から。
何も変われない、何も成長しない自分から。
そして、そんな自分を否定してしまう自分から。
なかなか、難しいことだとは思う。
僕という人間の、根本的な思考を変えていかなければいけない。
「今までの僕が生きてきた時間」によって培われてきた「今の自分」の考え方を、少しずつ、ちょっとずつでいいから、変えていかなければいけない。
せめて少しでも、「今の自分」を認めてあげることができたら、多少なりとも生きやすくはなるのかもしれない。
所謂、「自信」や「自己肯定感」を持てる人間だったなら、どれだけ生きやすかっただろう。
生きるのは難しい。
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昔から、僕はいろんなことに対して、完璧であろうとしてきた。
親からの期待に、友人からの信頼に、先生からの期待に、意識的にそうしてきたわけではなく、無意識に自分の中で、「自分はこうでなければならない」という心のルールを作って完璧にこなそうとしてきた。
だから、先生からは優等生として認められていたと思うし、友達からは勉強のできる優秀なやつ、くらいには思われていたんだと思う。
でも、だんだん学年が上がるにつれて、年を経るにつれて、何もかもを完璧にこなすことが難しくなってきた。それでも自分の中にある、今まで作ってきた「こうでなければならない」という半ば歪んだ価値観を、柔軟に変化させることができないまま大人になってしまった僕は、塞ぎ込んで音もなく崩れ落ちるだけだった。
そのがれきの中に残ったのは、皮肉なことにも、中途半端にプライドの高い、何もかもを完璧にこなそうとするが故に、何もできなくなってしまった、中途半端な人間だった。
これから僕は、「何もかもを完璧にこなそうとする自分」を捨てて、「ある程度までできればいい」という、自分を許せる人間になれたらいいなと思う。
周りと比べなくたっていい。
周りと比べて、必要以上にできない自分のことを責めなくたっていい。
できないことまで完璧にこなそうとしなくたっていい。
周りに遅れをとらないように、ただ漠然と何かをしなきゃと焦っていたって、結局僕は何もできなくなってしまうのだから。
だったら、今はまだ何もできなくとも、何も変われなくとも、ゆっくり目の前にあることを、自分のペースで一つ一つ片づけていこう。
そのうち、「しなきゃいけない」ことではなくて、「自分からやりたい」と思える何かに出会って、その時にはきっと、また昔の僕のように、きちんと結果を残せるはずだから。
だから今は、「『なにかをしなきゃ』なんて焦る必要はないんだよ」と自分に伝えたい。
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余談①
昨年春に祖父がなくなった際、親戚一同が集まった席で、叔父にあたるひとからこんな話を聞いた。
「『こんな風にはなりたくない』『こんな人間にはなりたくない』...そんな風に考えてばかりいると、不思議なことに気づけばどんどん『なりたくなかったはずの人間』になっているんだよ...いやになっちゃうよ(失笑)」
その時は「ふ~ん...」くらいで、たいした話だとはとらえていなかったが、最近になって、なかなか大事な話であるように思えてきた。
人間不思議なもので、「こうはなりたくない、あんな風にはなりたくない」そんなことを考えて生きていると、気づけばいつの間にか「なりたくなかった人間」になっている。
僕も、小中高と「タバコを吸うような人間はクズだ」「僕は間違ってもタバコを吸うようなことはない」「酒におぼれて自分を見失うような人間は愚か者だ」と、なんだかずいぶんと偉そうな斜に構えた学生だったが、今となっては酒におぼれ、毎日のようにタバコを吸い、挙句の果てに寝坊して大学にもほとんど行かなくなっている。
神様なんてものがいるなんてことは考えたことはないし、奇跡や偶然も信じてはいないが、何の因果か、人間なりたくなかったはずの人間に、気づいたらなっているようである。(これについては後日、やる気になったらもう少し考えてみたい)
だから僕が思うに、「こうはなりたくない」という否定的な考え方で今後の自分の理想を描くのではなく、「こうなりたい」という、肯定的な今後の自分の人物像を描き、それに対して脇目もふらず、邁進していくほうが良いと思う。
要は、「他人の所作や考えに対して文句をつけている暇があったら、自分の人生を歩め」ということのようだ。
理解することはできても、実行することは難しそうではあるが、僕はその叔父の話と、自分の経験から、そんな風に生きていたいと思えるようになった。
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余談②
今回の本題に関連して、僕が応援しているアーティストの新曲が、なんかこうしっくりくるなぁと思えたので、ここに引用させてもらう。
2016年ころからずっと応援している Half time Oldというバンドなのだが、新年のauの三太郎のcmのテーマソングとして採用されていて、とてもうれしい限りだ。
CDTV(Count Down TV)で地上波で歌っているのを見て、感動のあまりに大号泣した。
時間があるときにでも、聴いてもらえると嬉しい。