僕の中にある「素敵」を信じたい
投稿頻度はまちまちではあるものの、なんだかんだで書くことをやめず、今もこうしてnoteの更新をかろうじて続けることができている僕。
2019年から始めたnoteも気づけば2回目の10月を迎えようとしている。
数日連続して更新が続いたなぁと思えば、平気でぱたりと数ヵ月更新をやめてしまうこともしばしば。
降ったり止んだりする、夏の雨みたいなペースで2年。
それでもこうして今もnoteを更新している以上、書くことを続けられているって、少しは自分を認めてあげてもいいのかな、なんて考える。
始めたきっかけは、単に新しいサービスに目が行ったからとか、尊敬する作家さんが始めていたからだとか、そんな理由。
過去のnoteを見返してみてもどうして始めたかだとか、そんなような記述は一切ないし、そもそも今覚えていない時点でそんなに大層な理由や目標があって始めたわけではないのが伺える。
どんな大義名分を掲げていようと、たぶん”きっかけ”はちっぽけなものだったと思う。
そんな中途半端な僕でも、こうして未だに書くことを続けられているのがなぜなのか、少し気づきがあったので書き記しておきたい。
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ここ数週間、noteを更新しようというモチベーションが非常に高い。
noteを頻繁にチェックするようになったのは一、二ヵ月前くらいからだろうか。
それ以前はそもそもそんなに開くことすらしなかった。
たまにスマホに来る通知で思い出す。そのくらい。
そんな僕がほとんど毎日のようにnoteをチェックするようになって、あまつさえ自分で書き始める気力がわいてくるとは、読書の秋の影響か、それとも単に暇だったのか。
たぶん後者だけれど。
ここ二ヵ月の間は、誰かが書いたものを読んで、じわじわと自分の中の書きたい欲を掻き立て、書きたいもののイメージをまとめていく、そんな感じの期間だったのかなと思う。
好きな時に、好きなものを探して、好きなものを読んで、好きなように書いて…。
僕にとってのnoteってたぶんそんなものだ。
毎日続けなきゃいけないとか、フォロワー何人目指すとか、そういった積極的な目標は、たぶん僕にとってはネガティブなプレッシャーになりかねない。きっと不釣り合いだ。
僕にとってのnoteは、目標とかノルマを自分に課すものではなくて、物を書きたいという欲求が自分の核みたいなところにあり続ける限り、好きな時に好きなように自分を表現できる場所なんだと思う。
僕がここまでnoteを続けられた理由も、そんな中途半端な僕だからこそ受容できた、noteの在り方みたいなところにあるんじゃないだろうか。
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僕の中でのものを書くという行為は、なにもこうして人に見てもらえる形で投稿することがすべてではないことに最近気づいた。
日ごろから常に何かを考え、考えることがなければテーマを与えてくれるきっかけを、無意識に求めていたように思う。
日々持ち歩いているノートに、その日考えたことや感じたこと、思ったことを淡々と書き留めていた。
思索にふけるきっかけを与えてくれるそれは、音楽であったり、映画であったり、他人との会話だったりする。
日常のなかの小さな物事ひとつひとつに、僕はたぶん"考え"の糸口を探している。
前回のnoteだって、親との会話が考えるきっかけを与えてくれた。
たぶん僕のそういった性質は、「考えることを辞めない生き方をしたい」という僕の信条由来のものだと思う。
これについてもいつかnoteにまとめようと思っているから、ここで詳しく書くことはしない。
あえて端的に書くのならば、
たとえ100人中99人が「そうだ」と結論づけたことでも、自分自身で納得がいくまでは「そうではない」可能性を考え続けたい
そんな生き方が僕の理想だ。
だからたぶん僕は、常に考えるべきなにかを探している。
続けようと意識していたわけではないにせよ、少なくともこの2年は、その信条を放り出すことも無く、考え続けることができていたのかなと、今になって振り返る。
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そもそも僕のnoteの7割は、下書きに眠っている。
正確に数えたわけではないけれど、体感でそれくらいは。
考えがまとまらないうちに、見切り発車で書き始め、途中で投げ出してしまった大量の下書きは数知れず。来るはずのない完成の日を待っている下書きもあれば、公開したはいいものの、あとになって恥ずかしくなり下書きに戻してしまった記事もある。
自分で読むのも苦痛になって衝動的に消してしまったnoteもいくつか。
そういったものは大抵、一時の感情に流されてその場の勢いで書いてしまったものが多い。
たぶんこれからも、感情に流されやすい僕は、そういう駄文を書いては消して、書いては消してを繰り返すのだろうけれど。
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僕の手持ちのノートには、前述の通り、日々感じたことや思ったこと、考えたことが書いてある。
簡単に言えば日記のようなもので、人に何を言われてどう思っただとか、ニュースをきっかけに考え始めた社会問題のこととか、そんな他愛のない考えや気づきばかりが書き込まれている。
その中でも、自分で気に入ったテーマだけがnoteに書き始められる。
公開に至るまでが長いのに、公開した後に消されることもなく、戻されることもないまま残っている記事は、僕がきちんと最後まで書ききった数少ない大切な記事たちだ。
そんな数少ない大切な記事で、僕は何を伝えたいのか。現状の僕はこう結論づける。
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たぶん僕は、僕の中にある「素敵」を誰かに伝えたいんだと思う。
僕自身、いまだ気づけていない、でもきっとあるんだって信じていたい。
そんな風に思える僕だけの「素敵」を。
たとえばその「素敵」は、記事のテーマそのものだったり、言葉選びや言い回し、句読点のとり方といった表現だったりするかもしれない。
文中にちりばめられた僕らしさ。
何を考えてどう思ったか、日常的に使っている言葉、言い回し、それらが文章に落とし込まれて、僕という人間の個性や人柄、背景を物語ってくれる。
僕という人間に実際に会って、一緒に過ごして僕を知ってもらうのではなく、文章を通して、少しずつ僕という人間の朧気な外郭をかたどってもらいたいと思うのだ。この際、醜い自己顕示欲なんてどうでも良い。
ぼんやりとした輪郭でも良い。
僕が文章で表現する僕らしさを、誰かに見てもらって、そこにあるって僕が信じる「素敵」に気づいてもらいたい。
「あぁ、この人の文章、なんか読みやすいなぁ」とか、
「この人の表現、ちょっと好きだなぁ」とか、
そういった形で、僕だけの「素敵」を見つけてもらえたら、知ってもらえたら...そう思って今もこうしてnoteを書いているんだと思う。
そしてなにより、僕自身が、自分の中にそういう素敵が眠っている可能性を信じてみたい。自分で僕だけの「素敵」に気づいてあげたい。
だから僕は、
考えることを、
書くことを、
noteを、
やめられないのだ。
今の僕は、そんなふうに思う。