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椎名林檎女史の「閃光少女」と、      私見による「アドラー心理学」との共通点

“閃光少女”

 “椎名林檎”と聞けば、邦楽に詳しくない人でも聞いたことのあるお名前ではないでしょうか。椎名林檎さん自身は、もはやJ-POPの枠を超えて様々なアーティストともコラボレーションし、音楽のジャンルを拡大し続けています。
 その中でも私が今回取り上げたいのは、「閃光少女」(リリース 2007年11月21日)についてである。最近うつ病の改善に向け“朝散歩”をしている(実際は昼散歩であるが…それはここでは棚上げしておくw)。歩くときに聴く音楽に「閃光少女」は入っている。
 うつ病、ADHD、そしてACoAを持つ私にとって高校時代に出会ってから、ことあるごとにハマってずっと聴いている時期がある曲でもある。しかしながら、学生の頃はこの曲を聴いた時に「自分への“エール”、“応援歌”」のような曲だなぁ。と感じていました。(実際のMVも、学生と大人の“自分”がシンクロする踊りをしていたし…因みに出演されていたのは、女優・モデルの『松永かなみ』さんと『石津悠』さんが出演。)そして曲の背景について以下は、Wikipediaからの引用である。

本楽曲は、亀田誠治が作曲し、それに椎名林檎が歌詞をつけたもので、作曲者の亀田が付けた仮タイトルは「フード」。亀田は真冬の夕暮れ時に見かけたダウンジャケットを着てフードを被って天真爛漫に歩いている12、3歳の少女の現在と未来に思いを馳せ、「この子の将来って、誰に出会って、どういう人生を送るんだろう?」と心配になって忘れられなくなり、形に残すべく曲にしたと語っている。歌詞については、亀田から聞いたそのイメージを糸口に椎名が書いた。また椎名は、2ndアルバム『大人 (アダルト)』収録の「透明人間」を作詞する際に亀田が息子をイメージした曲だと知らずに歌詞を書いてしまったため、今回はその延長で書いたとも語っている。
演奏では、本来はキーボーディストの伊澤一葉がリード・ギター(エレキギター)を担当し、代わりに皆川真人がシンセサイザーを演奏している。

と、曲の根源のイメージは亀田誠治さんが幼い子供の将来を憂うと同時に希望を込めて作ったもののようである。学生の時の私もそう感じた。まさにあの当時流行っていた「未来への自分へのメッセージ」のような“煌めき”を。だが、私は今いい歳をとった大人である。また、資本主義社会での落伍者だと言われても仕方ない状況の人間でもある。仕事をし、結婚をし、子供を授かった同級生は憐れみの眼差しを受けることもあるだろう…(T . T)。そんな風に、“比べようのない他者”と“自分にしか変えることのできない自分”を比べて、結果として“自分”を苦しめてしまう…。
 これは私に限ったことではなく、恐らく不安症な人々、うつ病の人々も陥りやすい思考なのではないだろうか。極端なまでの自信の無さは、ACoA(アダルトチルドレン オブ アルコホリック/Adult Children of Alcoholics)の影響が大きいと私は思っている。また、一般論としても「隣の芝は青く見える」なんて言葉もあるほど、人はよく比べたがる。「私は〇〇さんより、お金持っている」「〇〇さんは結婚してないから私の方が幸せ」などなどなど…。挙げていけばキリがない。またこの逆の“下を見てしまう”という思考も存在している。「アイツに比べたら俺はまだマシだ」「あの人は失敗したけど、私はしてない」など。最早上下で比べあうしか人の心の安息地はなくなりつつある。そんな社会であればその“空気感”に嫌気がさす人もいるでしょう。私は、どちらかというとADHDの特性が強く出てしまい、それが苦になってしまい、社会で大怪我をしました…。そんな社会における個人的な危険行為は「マウント」ではないでしょうか?

“マウント”の持つ危うさ

 上記のような、人の立ち位置や、職種、収入、人間関係などで比較をしてなんとか「他者より上に!」という執念、行動、発言を現代では「マウント」という言葉で表すようになっています。今、私は何も実績も立派な職歴も、肩書きもない。対人関係に至っては、友人は1人しかいません(家族を除いてだが)。そんなほぼ何も自分の周りで失うもののない私は、最初全てが恐ろしかった。「こんな私が生きていていいのか?」などと考えていた。人を殺したり、悪事を働いたこともないのにだ。では、なぜ私はこのような自罰的な思考になるのか?私個人の見解では「対人関係」が密接に関わってくると思う。これまで私という人間が“どのような人々と関わってきたのか”ということである。
 基本的に私は「性悪説」に基づいて人を見ている。この場合の「悪」とは犯罪などのことではなく、捉え方によって悪にもなり得るという意味での「悪」だ。つまり、“ソクラテスのパラドックス”のように「悪を欲して悪を行う人間はいない。その人間にとってその行為は善なのだから」というややこしい考えたにも影響を受けてもいる。そんな思考の中において「マウント」という行為は、一種の自己防衛という見方もできる。自分の絶望を覆い隠すために、自分のプライドを守るために、かけがえのない自分という個を守る術を知らないが故に…。他者を切り捨てるわけでもなく、遠くからみて嘲笑う。婉曲な言いましで苦しめる。もしくは、罵声を浴びせて相手をサンドバッグにしてしまう。
 しかし、このマウントという行為の危険性は「崩壊」と隣り合わせということである。つまり、「諸行無常 盛者必衰」という言葉が表す通り、将来とはカオスなのだ。もしかしたら、健康診断で難病が見つかるかもしれないし、信頼していたパートナーが不貞をしてしまうかもしれない。または、相手が収入はいいがDVをする人かもしれない。
 つまり、「完全で理想的な人間」などこの世には存在しないのだ。しかしながら、人は無意識でそれを求めている。「安定した何か」を…。でもそれは存在しない…そんな事実を薄々感じているから「マウント」をする。どんぐりの背比べを精一杯努力する。しかし、そこに何がある?ひたすら人と背比べしたところで、何を得られる?今の私には、それがわからない。もちろん、肯定的な意味合いでの疑問だ。

アドラー心理学 → 「閃光少女」

 この記事を書くにあたり、一番重要な「閃光少女」の歌詞をここに記載しておく。(J-Lyric.netより)

今日現在(いま)が確かなら万事快調よ
明日には全く憶えて居なくたっていいの
昨日の予想が感度を奪うわ
先回りしないで

今日現在(いま)を最高値で通過して行こうよ
明日まで電池を残す考えなんてないの
昨日の誤解で歪んだ焦点(ピント)は
新しく合わせて
切り取ってよ、一瞬の光を
写真機は要らないわ
五感を持ってお出で
私は今しか知らない
貴方の今に閃きたい

今日現在(いま)がどんな昨日よりも好調よ

明日からそうは思えなくなったっていいの
呼吸が鼓動が大きく聴こえる
生きている内に
焼き付いてよ、一瞬の光で
またとないいのちを
使い切っていくから
私は今しか知らない
貴方の今を閃きたい
これが最期だって光って居たい

以上である。そして、最近私はアドラー心理学の「嫌われる勇気」を読んでいた。人間のできていないそしてうつ病の私にとって、アドラーの言葉は受け入れ難い提案ばかりではあった。だが、その中でも私は非常に重要な考え方を見つけた。それは……。

「いま、ここ」を真剣にダンスする。

という提案である。アドラー心理学では、未来も過去も無く、人生とは「連続する刹那である」と考えられています。その考えの中に、「将来の計画性など意味を持たず、目標に向かって歩む人生など不可能である。何かを達成した人は、最初から全て計算してそこにたどり着いたのだろうか?いや、そんなことは人間には困難である。なぜなら未来は存在していないのだから…」と。
 では、何か特別なところに到達した人は“どうやってそこに到達したのか?”という疑問が出てきます。それに対してのアドラー心理学の答えが上記の「いま、ここを真剣にダンスする」という言葉です。ダンスを踊るとき、ダンサーはダンスのことに集中しているはずであり、過去のことも当然、未来のことも考えていない。その時、彼らは「いま、ここ」の瞬間、瞬間を生きている。目の前の楽譜、音、動作、呼吸、動き、全てを真剣に生きている。その結果、人は「どこかに辿り着く」とアドラー心理学は提唱します。到達した場所が望んだものなのかは、未来も過去も存在しない段階で不問である。でも当人が「かけがえのない一瞬、刹那」を“真剣”に生きたということは、少なくとも「自分の人生を生きていた」と胸を張って言えるだろう。

「いま、ここ」を生きる 見事なまでの符合性

 以上のアドラー心理学の人生の生き方を踏まえて先程の「閃光少女」の歌詞を見てもらいたい。私のような社会不適合者が見つけられた符合なのだから、読者の方にもわかると思う(そうであって欲しいw)。特に学生の頃は、「いま、ここ」を真剣に生きる意味なんてわからなかった。むしろ「夢を追え!」みたいなスパルタな応援ソングだと思っていたのだorz。
 だが、歳をとった今は違う。私は人生の意味を考えてしまった。“人間の深淵”を覗き込んでしまったのだ。その結果、私の頭には悪魔が住み着いたような状態だ。時々襲ってくる激しい自己嫌悪、自己否定、言いようのない不安と焦り。これらをなんとか鎮めるための薬はアドラー心理学の「一瞬を真剣に生きる。例えそれが何か高尚なものでなかったとしても、自分で納得できるような一瞬を!」という強い光だ。そして、私はその光を「閃光少女」に見出したのである。

 恐らく、椎名林檎さんや亀田誠治さんは、アドラー心理学を絡めて作詞作曲されたのかは不明である(恐らく私の妄想でしかないが…)。でもいい。私には「閃光少女」はアドラー心理学のメッセージそのままなのだ。その事実に気付いてこの記事を急ぎ書いた次第である。椎名林檎さん、東京事変が大好きであるということを省いても、この曲と心理学のシンクロニシティな神秘さを心が疲弊した人に、そしてうつ病で悩む皆さんと共有したい。
 是非、聴いたことのある方は今一度視聴をお勧めします。また、「閃光少女」を聴いたことがない人はいますぐ聴いてください。そしてアドラー心理学を知らない人は、私のアカウント、Twitterをフォロー…ではなくw「嫌われる勇気」を購入して読んでみるといい。


あなたは 「いま、ここ」 を “真剣”に 生きていますか??

では、またどこかで会いましょう。
チンチラシルバーでした( ´ ▽ ` )ノ
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