雑記1170「人間は最悪の状況ですらなりたい自分を選べる」
妻と母が収容所内で、そして兄も別の地で亡くなっていたことを知った時のヴィクトール・フランクルが泣きながら友に問うた言葉、
「こんなに苦しいことがこんなに立て続けに起こるなら、この苦しみにはきっと意味があるはずだよね」
この結晶のような言葉に射抜かれ続けている。
フランクルの提唱する「ロゴセラピー」(意味の心理療法)の真髄はおそらく、コペルニクス展開…つまり、「発想の転換」にあるだろう。
それはよく聞く慰めではあるけど、その転換をいかに苦しみの人に挿し込むか、が要諦なのだ。
悩みの渦中にあると「なんだ、発想の転換か。そんなことが出来たら苦労しないよ」とすぐにシャッターを下ろしたがるけど、その通り、それが出来さえすれば苦労はないのだ。いや、苦労ぐらいはするけど、それをマイナスのことと捉えなくなる。
この世の地獄から帰って来た男が言う発想の転換とは、この世だけのレベルでのものではない。ここが精神分野の権威であるフロイトでもアドラーでもたどり着かなかった領域だ。
射抜かれた言葉を持ってずっと彼のように生きようとしてみると(もちろんしてみるだけ。彼の現実とオレの妄想ではまったく雲泥の差なんだろう)、こう思うようになってきた。
「むしろ、苦しみにしか意味がないんじゃないのか」
オレが尊敬してる人たちはみんな、苦しみまくっていた。ウマいことやれた人にはまるで憧れもしなかった。
そんな偉大な人たちでさえきっと、食べることの幸福感や、大恍惚の性的行為や、身に余る名声にニヤけるしかない瞬間などのリアクションは、オレと大して違わないはずだ。
つまり、プラスのことが起こっている時は、彼らだってきっと凡人だ。「この人の幸福の感受の様子は、見てるだけでも実に崇高ですなぁ」なんてことはきっとない。どんな人でも幸せな時は鼻の下を伸ばしてると思うんだ。
だけど、苦しみのさなかにおいては、人によってまるで違う。むしろその時にしか、おこないの差がわかりやすく出ないんじゃないか。
そこで境遇を呪う人、国や時代や人のせいにする人もいれば、本当は泣いたまま不快を撒き散らさずに笑顔を貼りつけられる人、態度だけでも人に優しくできる人に分かれる。
その人がその人たる意味は、苦しみの中にしかないとしか思えなくなってきた。
だからオレは、重症急性膵炎で瀕死の状態になったことや、オトンが自死しちゃったっていうことが、好きだ。
もちろん後者のほうは、当初悶え苦しんだ。「こんなことがあってはならない」と、本当にリセットボタンがないのかと何度も空想した。
でもいまは、それらの出来事をかなり好いている。自分に起こってきた小さな幸福よりは明らかに好いている。
その時はあんなにも避けたかったことが、振り返ってみるとそうとしか思えないのは、「意味があった」と自分が思えるからだろう。
だから、したり顔で「人生に意味なんてないですよ」と、澄まして見せてるような人は、ホントは宇宙空間に放り出されたような悲痛を味わってるんだろう。
だけどこれはきっと凍傷にも似て、その間本人は自分が叫んでることを、この世のレベルでは認識できてない。
だからそういう人は意味もなく人前に出たがるんじゃないか。そのことが凍った自分を救済してるとも知らずに。
いや、意味もなくは失礼だな。それが大きな意味なんだろう。
フランクルの遺した言葉の中でも、究極の転換はこれだろう。
まさに180度、世界の入口と出口が入れ替わっている。胡蝶の夢のエピソードを聞いたことがある人は、イメージしやすいかもしれない。
「死にゃあしないんだから」「死ぬこと以外かすり傷」などの慰めがまったく効かないような絶望の時には、この世だけを思ってても救われない。
ほとんどない、ってのもまた好きだなぁ。
【今月のオリジナルソングさらし】
月末に新曲アップしてます。コメント大歓迎ちゅう😗