体育嫌いはなぜできるのか
体育が嫌いな人は一定数いると思う。
世の中には色々な体育嫌いが存在する。
体育は何もかも嫌い。というタイプ。
走るのはいいけど体育は嫌い。というタイプ。
運動が得意でも体育は嫌い。というタイプ。
私は「体育は何もかも嫌い」というタイプだった。
今は自分で始めた運動のおかげで「走るのはまだちょっと嫌だけど運動は楽しい!」と思うようになったが、そう思うに至るまで、生まれてから20年。
長い年月だ。
20年間、運動する楽しさを一切知らなかった。
体育は苦痛だった。
ただただ恐怖の時間だった。
そう、20年間体育は悪だとすら思うほど嫌いだったのだ。
なぜ体育が嫌いなのか
結論から言おう。
・みんなの前でやらされる
・チームの足を引っ張った時の上手い人からの冷たい目線に陰口
みんなの前で失敗する羞恥。いたたまれなさ。
足を引っ張って冷たい目線が刺さる。
こんな体育、やってられるか。
恥をかかされチームメイトのは冷たい目で見られ時には暴言を吐かれ挙句の果てに毎回先生に呆れられる。
こんな状況で体育を好きになれるわけがない。
チッまたこいつかよ
また同じチームかよ
こんなのもできねえのかよ
サーブくらい入れろよ
視線というものは時には言葉よりも酷く心を傷つける。
心無い一言でその後の体育はすべて「視線との恐怖と戦う時間」になったりする。
思春期にできるできないを突き付けられる。笑いものにされる、恥ずかしい思いをする。チームメイトにまたかよと言われる。
本当にたった一言、それを一度いわれただけで体育が苦痛で仕方ないものへと変わっていく。その言葉がただ悪意なく思わず言っただけだとしても。
体育は上手い人と下手な人の間に溝を作り、その溝は人を体育嫌いにし、やがて運動を避けるようになるのだ。
体育嫌いは運動嫌いではない
しかし実は体育嫌い=運動が嫌い、ではない。
体育嫌いで運動嫌いだと思っていた人が大人になり健康のためといって走り始めたりジムに行き始めたりした時、こう言う。
「走って汗をかくことが思っていたよりも楽しい」
「筋トレが苦痛じゃない」
もちろん走ってみたけどやっぱり疲れるから嫌だ、という人もいるにはいるが、いざ大人になって運動をした時に楽しいと感じる人がいるのも事実である。
なぜなら走ったり筋トレしたりするのは「みんなの前でやらされて恥をかかされ」ないし、「チームメイトの足を引っ張って冷たい目で見られ」ないからだ。
運動、楽しいよ。
体育嫌いだった私より。