自助団体と民間学閥の温度差
日本のハレの日は酒。そのほかはアウト!
と、言葉にするのも憚られることを先日体験した。
他の嗜好品を惰性で汎用していると薬物中毒扱いになった事がある経験から記述していく。
常に低血圧の高体温。朝が辛い。しかし目覚めのホットコーヒーで出勤ということができなかった。(カフェイン過敏症の為)
社会性の欠如もこの辺にありそうだなと。
写真は抗酒剤。服用して飲酒すると急性アルコール中毒になる。
実験ではなく体験。1ドリンク(アルコール約10g)で見事に急性アルコールの症状発現。
懲罰的な体感で拒絶反応を刷り込み離脱させる薬品。
私はコントロール障害と診断されている。要するに嗜好品を「嗜む」ことができず,対象を恣意的に分析し快楽の奥底を追求する倒錯的な利用を優先に分析して実践する。
「歪んでるね」
と、累犯のアディクションの方にも突っ込まれるほど酷いようだ。
反省しても蝕まれた脳と体は元に戻らない。
開き直る分けではないが「自分だけは狂わない」といった言い訳はしなかったから可笑しい自己分析ができて何とか俗世に繋がっている。
元々壊れているからバラバラの破片を塊にして理論武装をしていたが、1度隔離病棟へ措置入院になった経験がある。こういう事を主治医に意見すると
「生半可な知識で意見しないで下さい。貴方が退院出来るのは1か100です。」
仮退院から病院には戻らずにネットカフェに潜りこんで医師の経歴を調べると自閉症児に覚醒剤を投与し矯正いていく論文が見つかった。
現在の発達障害養育へ繋がる危険な記述
「戻れば一生退院できないな」
直感的に感じたので、身元引受人を通じて主治医にその旨を伝えたら「形式だけでも退院手続きに来てください」と。
「ははは。大した探求心ですね。貴方も私も立場が違えば同じことしてたかもしれませんね」
医療を弄んではいけないと思った。生死のコントロールを生業にする従事者の悲壮感を感じ何が原因か分からない私のような中毒患者にも共感をよせてくれた。
そのときは「ヨーゼフ・メンゲレみたいなナチス野郎」と思ったが、今思うと専門分野に蚊帳の外から不純物質を鑑定して原因を特定してくれといったようなものなので、雑音に等しい患者紛いの輩に対しては合理的に配慮してくれたと感じる。
「よそはヨソ。うちはウチ。」
このきっかけで人の心に土足で踏み込んではいけないと感じた。
他人が批判的に映っているときは自分がそう写しだされていることも
学問を軽視してはいけないし、独自の研究も蔑ろにしないでおけば互いの差異から妥協点が導き出される。それが人間関係というものだろう。