空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 邪馬台国と前方後円墳
今回は大胆に、前方後円墳の”謎の形状”に関するオリジナル新説を発表しちゃいます。前方後円墳の”鍵穴型”形状の理由には、諸説ありますが、邪馬台国とも関連する新説を思い付いたので紹介します。
前方後円墳は、円形の墳丘に方形の墳丘を付設した古墳を指します。上空から見た形状は、円形と方形を組み合わせた鍵穴形をしています。英語では前方後円墳のことも、”Keyhole-shaped mounded tomb”といいます。日本では、この形状が車(牛車)に見えることから車塚といわれたり、ヒョウタン型にみえるので|瓢塚《(ひさごづか》と呼ばれています。また、二つの山が隣接しているので、双子や乳房に例えられたりもしました。
前方後円墳の形状については諸説ありますが、主な説は2つです。まず一つ目の説です。前方後円墳の前の時代の弥生時代には、土を盛り上げ周囲に堀をめぐらせためぐらせた墓(方形周溝墓)がありました。これらの中には、堀の一部がとぎれて陸の橋となったものもありました。この陸の橋は単なる橋ではなく、この部分では様々な土器が発掘されています。このことから陸の橋では、使者を送る儀式が行なわれていたと考えることができます。やがて陸の橋の部分が大きく発達して、前方後円墳に見られる形になったという説です。
二つ目の説は、中国から伝わったという説です。中国では古くから、”天は円く地は方形”という”天円地方”という宇宙観・考え方がありました。中華文化圏の建築物には、この思想に基づくものが多数見られます。これが、日本に伝わって前方後円墳の形になったという説です。
どちらも有力な説らしいのですが、私にはちっとも説得力を持ちません。最初の説は、古墳の形状変化の移行を説明していますが、”あの形状”の必然性は示していません。二つ目の説に至っては、言語道断です。中国本土に多くの前方後円墳が存在するのであれば納得もできますが、前方後円墳は日本独自の様式の古墳です。ただし、朝鮮半島南部には数基の前方後円墳があるので、これからの研究が待たれるところです。
いよいよ新説を発表します。前方後円墳の形状は『島の形』を表わしています。島と言っても、単なる島ではなく、邪馬台国の故郷である奄美大島の形を模していると考えています。下に奄美大島の地図をします。この地図を見ると、「なんだ、ちっとも似ていないじゃないか!」と思うかもしれません。でも少し冷静に考えてください。古代ではまだ測量技術もなく、正確な地図などありません。しかし、海洋民族の邪馬台国人は、奄美大島の大雑把な形状は把握できていたはずです。奄美大島を簡単な図形で描こうとすれば、円と長方形の組み合わせで近似できそうです。
邪馬台国と、その後の大和政権は何らかの関連があり、大和政権の祖先の出身地である奄美大島を懐かしむ(またはリスペクトする)ために、同じ形状にしたのではないかと睨んでいます。また、前方後円墳の周囲には、!周溝《しゅうこう》と呼ばれる溝が掘られ、大型な古墳ではその周溝が水で満たされて、堀を形成しています。お城などのような防衛施設なら水堀は必要でしょうが、お墓である古墳に水堀は必要でしょうか?。この水堀も、前方後円墳が”周囲が海である島を模した証拠”だと考えています。
前方後円墳には、埴輪などが飾られていました。この埴輪の中には舟形埴輪なども見られます。どの古墳でも舟形埴輪が見られるわけではありませんが、これも”前方後円墳が島である間接的な証拠”であると考えています。