私の父は、バスの運転手でした。父の運転免許は大型二種でしたから、ほぼ全ての箇所に〇が付いていました。大昔は、普通免許を取ると、自動二輪の免許が付いてきました。なので、技術的な問題はありますが、父の免許はナナハンも乗れるオールマイティな免許です。たしか、乗れないのは牽引車だけだったと思います。
父は世話好きですから、バス会社を定年で退職した後も、年に1回くらいは大型バスをレンタルして、大人数(友人・知人)で神社にお参りなどに行っていました。さすがに80を優に超えた現在は、バスは運転しませんが、自動車は体の一部なので、いまでも元気に運転しています。
私が小さい頃は、父は主に貸し切りバスの運転をしていました。貸し切りバスの運転は宿泊も多く、一度出かけると2・3日帰ってこないことはザラでした。長いと一週間ぐらい家に帰って来ませんでした。父が居ないと少し寂しいのですが、久しぶりに戻って来た父のお土産(お客さんからもらったお菓子)が楽しみでした。昔は、貸し切りバスの団体旅行だと、お客さんからお土産や祝儀(現金)をもらったりしました。
体力的なこともあって、私が小学生の高学年の頃から、父は路線バスの運転手になりました。現在はワンマンバスが当たり前ですが、私が小学生の頃は、女性の車掌さんがいました。バスの乗車券は、その車窓さんから買う必要がありました。しかし、この頃から、少しづつワンマンバスに移行していきました。
路線バスには、土日も関係ありません。父の休日は勤務表で決まっていて、通常はウイークデイです。学校から帰ると家に父が居ることもしょっちゅうでした。休日は、1週ごとに少しづつ曜日がズレるので、2か月に1回は休日と日曜が重なりました。
日曜の朝早い勤務では、母の弁当が父の出勤時間に間に合わないので、私が父に弁当を届けることがありました。母だと遠くの営業所の運転手控室まで届けるのですが、私が届ける時は近所のバス停で父を待ちました。バス停をバスが通過する時間は決まっていますので、その時間に合わせてバス停に向かいました。お客さんがバスの前方にいる時は無言で弁当を手渡しましたが、お客さんがほとんどいない場合には二言三言、言葉を交わしました。
大学生になっても、実家に帰省している間は、自転車で営業所まで弁当を届けに行っていました。懐かしいなぁ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?