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空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 倭人とアイヌ

 魏志倭人伝の倭国には、南方を思わせる記述が多く出てきます。例えば、『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)です。縄文時代の途中から、平均気温が上昇しましたが、それにしてもビニールハウスの無い時代に、北部九州や畿内では年中生野菜は食べられなかったはずです。

 また倭国の(南方系の)風習で、刺青いれずみの記述も数ヶ所出てきます。『男子無大小、皆黥面文身』(男子は身分の区別なく、みな顔や体に入墨をする)がそれです。倭人の男性は、顔や体に入れ墨を入れていたのでした。この風習は、邪馬台国(奄美大島)から更に南のインドネシアなどにもあった風習です。もちろん、江戸時代までは奄美にもその風習は女性の入れ墨として残っていました。入れ墨は成人の証だったのでしょう。私の空想では、倭国は海洋国家で、倭人は漂海民です。何かの本で読みましたが、海洋民族では入れ墨は溺死した際の本人確認のマーキングの意味もあった、と書いてありました。

 倭国から遠く離れたアイヌも実は漂海民です。彼らは、船を駆使して魚や海獣を狩り、樺太(サハリン)や大陸とも交易をしていました。アイヌの男性の入れ墨については知りませんが、アイヌの女性は口の周りに刺青をします。図のように、青い色の入れ墨ですから刺青の漢字がピッタリです。

 最近のゲノム解析の結果から、沖縄県民は、本州人よりアイヌの方に近いことがわかってきました。遺伝子的にも、南の島の人々は、北海道土着のアイヌの人々と深い関係があります。邪馬台国を知るためには、アイヌのことも知らなければなりません。そこで、最近アイヌ関連の本を数冊買いました。その中の一冊がこれです。

 これまた私の空想ですが、船を駆使して日本中を航海していた漂海民は、自分たちのことをアム(amu)と呼んでいただろうと考えています。邪馬台国では、母音が変化してアムからアマ(ama)になり、北海道では子音が変化してアヌ(anu)、さらにアイヌ(ainu)へと変わっていったのではないかと思います。言語学は素人ですが、様々な音韻変化があることは知っています。

 時代はずっと下りますが、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に多利思北孤たりしひこという倭国王が出てきます。開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者(遣隋使)を送ったと書かれていますが、古事記や日本書紀にはこの頃に男王は出てきません。

 隋書には、『俀王姓阿毎字多利思北孤』とあり、姓は阿毎あま、字は多利思北孤たりしひことあります。倭国王の苗字は、何と”アマ”なのです。アマタリシヒコ(amatarisihiko)は、天照あまてらす御子みこ=アマテラスミコ(amaterasumiko)で、聖徳太子ではなかったかと考えています。

 大和王権では、アマミ(奄美)に似た名前の、阿曇あずみ/安曇という有力氏族が出てきます。阿曇(安曇)氏は、海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族で、海と密接な関係があります。偶然かもしれませんが、ここでもアマと海は繋がっています。

 妄想が暴走しそうで、止まりません。

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