タグの危険性
もう世の中「タグ」である。
「ハッシュタグ」あるいは、などと呼ばれたりする。
約20年前だろうか
このタグがで出したのは
マーケティングのベースになっているのではないだろうか?
関連する文言を「タグつけ」することで引っ掛かりやすくするという「あれ」だ
「#」こんなマークを
みかけたことあるだろう。シャープ?とおもうのだが、これは「ハッシュタグ」と呼ばれる。
あれは、関連したキーワード群に参加することができる
というやつだ。
「印」的な意味合いで使われる。
今やいろんあなSNS、なんかに装備されている。
なかなか便利な代物ではある。
仲間を作ることができる。
仲間に入ることができる。
例えば、「ワンピース」のネタをした場合は、「ワンピース」というキーワードにして、タグをつけていると、そのタグをクリックすると、ワンピース関連の情報が取得することができるというものだ。
しかし、これを悪用して、「ワンピース」全然関係ないのに関連があるかのようにタグつけすると、タグ自体の信憑性が下がるという結果ににあるので、検索エンジンなどは、アルゴリズムを駆使して、「本文とタグの関連性」まで排除するというなかなかの手の凝りようである。
さて、ここで、「タグ」の危険性についてなのだが、
「タグ」を駆使すると
自分の好きな情報が身の回りに固められる。
最近の検索エンジンは、検索履歴を「タグ化」して、関連情報を表現する、関連CMを表現するという手法を用いている。あなたにタグ付けする。
これは一部の人にとっては、有益なのであるが、
実は、
「新しい出会い」
とは無縁なものとなる。
人間、未知なるものと出会う。
というのは「機会」すなわち「チャンス」であることが多い。
それが、「チャンス」とは無縁の世界になってしまうのだ。
「刺激」というのは「みたことも聞いたこともないもの」から来る
「知る」を数値化できるならば、
自分の見知が1だとすると、大体、1.3くらいの話は理解ができ、刺激もない。
これが、
1.7以上の開きがあると刺激になる。
2になると、もう何を言っているかわからない。というイメージ。
見知の限界が来る。
しかし、1〜1.3に興味があるからと言って、1~1.3の情報を見ていても、刺激がないため「つまらない」という感覚になる。
「つまらない」という感覚から抜け出す方法は、
そのメディアを止める
ぼーっと生きる。
というものがあるが、行動派の人は、「街」に繰り出す。
つまり、「デジタルの世界」から「アナログの世界」へと移すのだ。
街をブラブラすることで=「タグつけされていない情報」と出会うことで「刺激」をうける。
もしも、行動派でなければ、廃人であろう。
昔、テレビの前から離れられない人が多かったように。知っている世界というのはある種心地いいのだ。
このように「タグ」というのは、廃人製造機になる。危険性がある。
そして、「刺激」を求める人も増やしてしまう。
「刺激」の行き先が、人を傷つけないものであれば良いが、人を傷つけることになると事件になる。刺激への依存だ。それは世の中がつまらないことに起因する。
「タグ」というのは、そういう危険性を孕んでいると認識することが得策である。
回避の方法
では、「タグ」に支配されている場合の回避方法がある。
「視点」の「拡充」である。
人間の脳というのはまだまだ、デジタルの足元にも及ばない。
なので、それを利用する。
「視点」を巡らせるのだ。
自分の視点、相手の視点、世間の視点、興味ない人の視点、犬の視点、虫の視点、鳥の視点、
どうやるのか?
アカウントを新しく作り直す。
これが結構良い。
同じアカウントを使い続けると、知らないうちに「タグ」がベタベタと貼られるので、それをブランニューアカウントで一新するのだ。
一度やってみると、面白い、最初は全くみたこともない動画が上がってくる。
一度お試しあれ。
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