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№274 潜ること

潜水艦と飛行機というのは、
それまで地表を
ウロウロうろつくことしかできなかった
ボクたち人類にとって、
「海中」と「空中」という
新たな領域への進出を約束する発明品でした。

しかし、どうでしょーか?
同様の価値を持つものと見なされて
しかるべきにもかかわらず、
今のところどちらかと言えば
飛行機の方が、よりちょっと、
もてはやされているような気がします。

少なくとも、潜水艦に乗ったことのある人より、
飛行機に乗ったことのある人の方が、
はるかに多いですよね。

「海にもぐる」ということは、
潜水艦などなくてもある程度はできますが、
「空を飛ぶ」ということは
飛行機なくしてはできないから、
後者の方がより「得難いこと」とされ、
従って人気があるのかもしれません。

空に舞い上がり、
太陽に近づきすぎて神の怒りにあい、
墜落させられたイカロスの神話にあるように、
空の高さというのが
かねてから忌避領域であったということも
逆に人々の冒険心をそそのかし、
強く憧れることとなったのかもしれません。

ともかく、今ひとつ人気のない潜水艦は現在、
主として軍事用に使われ、
常に海にもぐってしまっているから
ボクたちの目に触れることも少なく、
ますますその影をうすーくしています。
#ボクみたい

「すべての生命は海から誕生した」
と言われているように、
どちらかと言えばボクたちは
空よりも海になじむべきであるから、
このことは今後のボクたちの生命維持のためにも、
問題とすべきことでしょう。

というわけで、
ここであらためて潜水艦のことを
いちいち考えてみたいと思うわけですけど、
飛行機と比較して潜水艦のいいところは、
その場で「じっとしている」ことができる点です。

もちろん飛行機だって、
ヘリコプターなどは空中で静止することも
まぁまぁできないわけではないのですが、
そのためにはそのための動力が必要です。

ところが潜水艦は、
逆に動力を停止することによって
「じっとしている」ことができるのです。

これは、かなりの利点と言っていいでしょう。

というのは、海中にせよ空中にせよ
そこを「領域」とするためには、
ひとまずそこに「じっとしている」ことが、
何よりも必要なのです。

実はこの意味では、
飛行機はまだ空中を領域とすることには、
残念ですが成功していません。

全世界の「そこ」を、
かなり頻緊に飛行機が行き交っているものの、
にもかかわらず、それらはそこを、
ただ「通過」しているだけなのです。

現在の飛行機というのは
いわば強力な動力によって、
墜落することを先のばしにしている
機能としか言いようのないもので、
その航路も領域というよりは、
「通過点の連続」に他ならないのです。

しかし、潜水艦はそうではありません。

「ここらでちょっとひと休み!」
ということができるのです。

この「ここらで」という感じ方こそ、
潜水艦にあって飛行機にないもの。

もちろん、外に出てそのあたりを歩いたり、
住み着いたりすることはまだ今のところできないものの、
そのための「領域の確認」はできるのです。

従ってボクは
飛行機の操縦士よりも潜水艦の乗組員の方が、
「未知の領域へ踏みこんだ」という感覚は、
より確かに抱けるものと考えています。

さらに極端なことを言えば飛行機の操縦士の方は、
空間ではなく、
時間の経過を体験したにすぎないとも言えるのです。

ただ問題は、ボクは潜水艦に乗ったことがないので
詳しいことは言えないですけど
「まわりが見えない」ということです。

つまり、領域というものを
領域として確かめることはできるものの、
視認によるものではないということです。

潜水艦同士の戦闘を描いた映画を見て知ったのですが、
どうやらそこでは音だけで確かめ合う世界らしいのです。

つまり、その場所に「じっとしている」ことによって、
そこを領域とすることはできても、
「そこいら」は目で誰かめるのではなく、
音で、もしくは「気配」で、
確かめなくてはならない、というわけでなのです。

それがどのような「感じ」のものかはわからりませんが、
それでもボクはこの世界において、
潜水艦的なありようを支持したいような気がしています。

というのは、
ここからは具体的に潜水艦であることと
飛行機であることとは離れるのですが、
このいわゆる「情報化社会」と言われる日常において、
ボクたち自身の行為そのものが、
余りに飛行機的であり、
そして、潜水艦的で「なくなり」つつあり
それが問題だと思われるからです。


最近、都内の街中を歩いていて感じることは、
すらすらと歩ける代わりに
手がかりみたいなものがなくて、
すべてが「通過点」になってしまうことを
ふと思ってしまう事があります。

つまり、
飛行機に乗って航路を辿らされている感じに近いのかも知れません。

比較して大阪など地方都市にはまだ、
「うん、このあたりは大阪だね!」というような、
或いは
「仙台であることがひとつの領域になっている場所」があります。

そしてこれは、ボクたち東京人に、
潜水艦的な感覚が失われつつあるせいではないか?
と考えるのです。

人々がすべて飛行機的になってしまった領域を
領域として確かめず、
「通過点」として通りすぎてしまう。

飛行機に乗るのをやめて、
潜水艦に乗って外国旅行をするようになったら、
いくらかこの感覚は修正されるのではないだろうか?
とボクは考えています。

もちろんそのためには、
観光用の潜水艦が運行するように
ならなければならないのだけどね。

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