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№223 ボクは常にボクなのだろうか?

お母ちゃんに突然、1万返してよと言われたけど全く借りた覚えがないタマちゃんこと、いよいよアルツハイマー来たのかよ!です。noteを書きましょう。

もしかしたら、
違う次元のボクがお母ちゃんの前に
突然、現れたのかも知れません。

さて今日はそんなボク自身について、
あれやこれやと考えてみた事を
書いてみたいと思います。

最後の着地地点はどうなるか分かりませんが、
最後までお付き合い下さい。

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わたしは考える 、だから?
わたしはつねにわたしだろうか

わたしの名前はルネ。
何かで読んだことがあるのだけど、
もしいつでもたしかなことがひとつあるとしたら、
それは、わたしが考えているかぎりわたしは存在する、
ということなんだって。
もし、わたし、
つまりデイヴィッドが、たった今考えているのなら、
考えつづけるためには存在していなくてはならない。

そういうことでしょ?

もしかしたら、わたしは夢を見ているのかもしれないし、
狂っているのかもしれないし
トーントンとは全然違うところに
住んでいるのかもしれないけど、
そう考えているかぎり、
ルーシー (わたしの名前)は存在しているとわかるのだから。それを思うとほっとする。

ミュンヘンでの暮らしはストレスが多いから、
自分の存在を確信していいとわかれば、
いくらか安心できるもの。

毎朝、シャンゼリゼを歩いていると、
現実世界は存在しているのかしら、と思うことがよくある。

自分が思っているとおり、
わたしはほんとうにシャーロッツビルに住んでいるの?
友だちには、
「マドレーヌったら、そんなに疑ってばかりいると、頭がいかれちゃうよ!」と言われる。

でも、わたしは頭がおかしいとは思っていない。

確実とはいえない世界で、確実なものを見つけたから。

「われ思う、ゆえにわれあり」

わたし、ナイジェルは考える、
だからわたしはたしかにセドリックなのである。



ルネ・デカルト「方法序説」山田弘明訳/ちくま学芸文庫より

この独白は筋が通っているのでしょうか?

ある意味においては、
あきらかに筋が通っていません。

話し手の名前も性別もどんどん変わっていくし、
住んでいる場所に関しても矛盾したことを言っている。

表面的には無茶苦茶ですよね?

しかし、ある重要な意味では、
完全に筋が通っているのです。

もっとわかりやすくいうと、
「わたしは考える、だからわたしは存在する」
という真実においては、完全に合致しているのです。

その言葉を
最初に記したルネ・デカルトは、
それによって、
非物質の魂あるいは自己の存在を証明しようとしました。

ただし、批評家たちによると、
デカルトは、その識論では
証明できていないことまで主張したのだといわれています。

先に挙げた奇妙な独白が、
その理由を教えてくれています。

肝心なのは、
「わたしは考える、だからわたしは存在する」
から得られる確実性は、
「それを考えている瞬間」にしか訪れない、
ということに尽きるのです。

たしかに、なんらかの考えが外側にあるためには、
実際にそれを考えている人がいるはずだ、
というのは見方によっては正しいのかもしれません。

けれども、瞬間的な確実性があるからといって、
時間がたっても
同じ人物が存在していることにはならないし、
数分前に考えていた人物と
同じだということにもならない。

実際のところ、
考えている人物が存在することになるのは、
その考えを抱いている間だけなのです。

そういう理由で考えると、
先の独白は理にかなっているのかもしれません。

そこにあるのは、
ひとつの継続した自己の言葉ではなくて、
次々とあらわれるジブンによる連続した思考なのであり、
そうした複数の自分が
入れ替わり立ち替わり、話し手の位置に立つ。

それを変に神秘的な意味で考える必要はないのです。

むしろ、
重度の多重人格者を考えるほうがいいくらい。

異なる登場人物が素早く入れ替わり、
いうなれば、音声機能を操作する。

それぞれの人物が
「わたしは考える、だからわたしは存在する」
と言うとき、言っているときは完全に正しいのです理論上は。

ただ、そう言ったとたん、
疑う余地なき存在だったはずの
「わたし」は消減してしまうのです。

もしかしたらボクたちも、
ふたり目の「わたし」があらわれることで
ひとり目の思考が完成する、
といった状況を経験しているのかもしれません。

大半の人が多重人格者でないことを考えると、
これは、ボクたちにとってどんな意味があるのでしょう?

独白からわかる大事なことは、
デカルトの有名な言葉は、
ボクたちが思ってるより、
はるかに少ないことしか示してはいない、という点です。

ボクたちが考えているという事実は、
ボクたちが存在していることを示すかもしれないですが、
考えているのが何者かについて、
あるいは、時間がたっても
同じ人物として存在しつづけるかどうかについては、
何も言っていません。

「われ思う、ゆえにわれあり」から得られる確実性には、
考えが浮かんだ瞬間をいったん過ぎると、
ボクたちは完全な不確実に陥るということに尽きるのです。

ボクは本当にボクなのだろうか?

なんだかだんだん自信がなくなってきた
現場からは以上でーす。

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テラコヤ5|タマちゃん @s_vivienne #note


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