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№291 「それでは、さようなら」と言って立ち去る。


もちろん、ごく普通の場合は、
「それでは」と言って立ち上り、
「失礼します」と言って立ち去ればいいのです。

これはとってもデリケートな問題ではありますが、
立ち上がる前に「それでは失礼します」と、
言い切ってしまってはいけません。

何故なら、
そこでひとつ物事が終息する訳ですから、
当然ながら相手に「何かお約束でも?」と、
からんでくる余地を与えるし、
立ち上がるためにも新たな動力を必要とします。

そうならないためにも
「それでは」と言いながら立ち上がれば、
それは自分自身を立ち上らせるための
ちゃんとした理由にもなるし、
同時にその相手には、
「何をするつもりなんだろう?」と、
疑問を抱かせることになるのです。

つまりこの場合の「それでは」は、
「それでは、ちょっとトイレへ」という「それでは」か、
それとも「それでは、ちょっと電話を」という「それでは」か、
あるいは「それでは、これで失礼します!」という「それでは」か、
わからないからなのです。

しかも人間というものは、
疑問を抱くと一瞬、沈黙する生き物なのです。

沈黙するその瞬間、
人間はとても空虚な存在となりえるのです。

実はこれが狙い目なのです。

そこで「失礼します」と言って立ち去れば、
ああ、今の「それでは」は、
「それでは、これで失礼します」の方の
「それでは」だったんだな!と、
相手もつい納得してしまいます。

疑問が解消されるのであり、
空虚であることが充たされるのです。

従って、もし彼の方に
こちらを立ち去らせたくない理由があったとしても、
疑間が解消され、
空虚であることが充たされたことに満足して、
そんなことは忘れてしまうのです。

たとえ忘れなかったとしても、
それを持ち出すためには新たな動力を必要とするし、
それを何とか発動させ得た時には、
既にこちらは立ち去っているのが往々にしてあるのです。

もちろん、ここまで問題が明らかになれば、
この「それでは」に、
「それでは急いでおりますので」と
もう一歩踏みこむことが、
更に完壁を期したもののように見えて、
実はそうではないことに気付かれるでしょう。

そうなのです。

これはやりすぎです。

「それでは急いでおりますので」と、
そこまで言ってしまうと、
この場合の「それでは」は
「それでは、失礼します」の「それでは」であると相手に気付かれてしまうし、
従って、その線上で相手に、
「何で急いでいるのですか?」と、
反論する余地を与えてしまうからなのです。

もし、反論するいとまを与えずに
立ち去るだけの技術とスピードが
こちらに備わっていたとしても、
その不満は相手に残るに違いありません。

この種のものを、
専門用語で「あとくされ」と言います。

「あとくされ」を残してはいけません。

もし「それでは急いでおりますので」と言ってしまったら、
「あとくされ」を残さないためにボクたちは、
「何故急いでいるか?」について説明するべく、「実は、この先にもうひとり待たせておりまして」ということを言わなければならなくなるでしょうし、
仮にもし、そんなことを言ってしまったら、
更に「あとくされ」を残さないために、
それが誰で、自分とはどんな関係にあり、
その日はどのような理由で待たせてあるのか、
ということまで話さなけばいけなくなり、
とめどもなく尾を引いて
ついにはこの人生のすべてを打ち明けざるを得なくなるでしょう。

そんなことをしていたら、別れることはおろか、
逆にますます結びついてしまいかねないのです。

「それでは」に「急いでおりますので」をつけ加えるのは、
一方的に有無を言わさず別れてしまおうとする気持の現われですが、
別れるに際しても最も注意を要するのが、
ズバリ、この点です。

別れというものは、
一方的に有無を言わさず行われることの決してないものだからなのかも知れません。

従ってこのことは、
別れるに際しての技術ではなく、
むしろ別れると見せかけて相手に追いかけさせ、
つきまとわせるための技術として分類されているのです。

押すと押し返してくる。

これが対人関係間に作用する力学の基本です。

だから押してはいけません。

それは相手に、
押し返して下さいと頼んでいるようなものなのです。

そればかりではなく、
それらしい気配を見せて、
相手に押し返す口実を与えてもいけません。

従って別れ手は、
「それでは」と言って立ち上った時、
ほとんど自分でそれからどうするつもりなのか、
わかっていないのです。

見上げてくる相手の目を見ながら
一瞬そのことを考え、
もしくは考えるふりをし、
誘われて相手が共に考えはじめた時、
「失礼します」と言って立ち去る。

この時、相手は、
立ち去るのか立ち去らないのかのドラマに関わっていません。

つまり、その場に当然作用してしかるべき力学から、はずされているのです。

誰もが日常的に使用している、
ごく素朴なテクニックですが、
そこにもこれだけの微妙な息づかいが
隠されているのだということを
知っておくべきでしょう。

言ってみれば別れる方法というものは
この種の微妙な息づかいの問題なのです。

息づかいが乱れることにより、
別れは、こじれるのであって
「あとくされ」が残るのであり、
もしくは、別れられなくなるのです。

もちろん、対人関係にも
さまざまなパターンがあるように、
そして状況設定にも
さまざまなニュアンスがあるように、
すべての別れが
「それでは」と「失礼します」の呼吸法だけで
片づくとは限らないのです。

しかし、基本は同じ。

ともかく、こちら側に
別れるための断固たる決意が備わっていることであり、
当然相手にも、
それを聞いてくる余地を与えないことであり、
にも関わらず相手に
その場でそのように事態が推移したことについて、何らかの納得をさせることなのです。

この点さえ踏まえていれば、
1時間前に会ったばかりの女性と別れる場合でも、
1年間同棲していたパートナーと別れる場合でも、
技術そのものに変りがあるわけではありません。

最終的には、
「それでは」と言って立ち上がり、
「失礼します」と言って立ち去るのです。

それでは失礼します。



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タマちゃん
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