№556 道徳の先生は本当に道徳的な人なのか?
ゆうべ電車に乗っていたら、
めちゃくちゃ酔っ払いのおじさんが隣に座ってきたのですが、
あまりにも周囲に迷惑をかけていて、
酔っているとはいえ、このおじさんの道徳的観念はいったいどうなっているんだろう?と考えてみました。
今夜はそんな内容です。
もし良ければ最後までお付き合い下さい。
▼道徳ってなんだ?
「道徳は、本質的には、拒否である」
(『道徳の逆説』 みすず書房 29頁より)
ウラジミール・ジャンケレヴィッチ
学校の道徳の授業のなかで、
『心のノート』なるものが以前にありました。
小中学校で道徳の授業を「改善」させるため、
起死回生の策として文科省が導入されたテキストなんですけど皆さん知ってます?
これがメディアをはじめ、
相次ぐ批判にさらされました。
あらかじめ「いい子」なるものが想定され、
「いい子」になるように誘導する仕掛けになっているという、
なんともチープな思考を持った公務員が考えそうなモノでした。
#お前が言うな
「考え、議論する道徳」の授業をするなら、
教師たちはまず、ジャンケレヴィッチの視点を学ぶべきでしょうね。
あ、ウラジミール・ジャンケレヴィッチって皆さんご存知ないですかね?
日本ではマイナーな哲学者ですが、個人的にはめっちゃカッコいいおじさんです笑
↓
で、話しを戻すと、
そのためにはまず「哲学者とは?」を問わなければなりません。
ジャンケレヴィッチは哲学を図式化することをめっちゃ嫌います。
そして「○○主義」のような党派の哲学を生業とする人を、
「哲学屋」といって嘲笑っています。
党派は、図式の中にボクたちを囲い込んで鍵をかけてしまう事です。
「なんとかかぶれ」と言われるような人なんかもソリが合わなかったりしていて、
当時、人気の党派に所属することもなく、
時流に乗ろうともしないジャンケレヴィッチ。
彼にとっての哲学は、教室での講義だけではありませんでした。
教室を出て生徒たちと一緒に闘うことがしばしばでしたので、
生徒たちには大人気だったそうです。
哲学者が主人公となるドラマができるとすれば、
間違いなくジャンケレヴィッチのような人物となるでしょうね。
そんな彼の名言の一つに、
「私は流行遅れになることはない!なぜなら流行になることがないからだ!」
こんな彼を人々は「現代のソクラテス」とも呼ばれたりしています。
で最初の彼の言葉に戻りますけど、
「道徳は、本質的には、拒否である」
この発言を「だったら道徳なんて無視しちゃってもいいんだよね」と早合点してはいけません。
この引用には続きがありまして、
「道徳は、自己本位の快楽の拒否だ。したがって、道徳を拒否する拒否は、ごく一般的には、道徳に基づく拒否の拒否、自分自身の快楽、自分自身の利益、そして自己愛を断念することの拒否だ。」
なぜ「拒否の拒否」と複雑な言い回しをするのでしょうか?
ポイントは、「拒否できるものでなければ
道徳にならない」ところにあります。
「道徳は拒否することができる」
これが前提なのです。
そのような拒否をさらに拒否することで真の道徳となるのです。
それではなぜ「道徳を拒否」するのでしょうか?
多くの場合、道徳的な行為が困難だからでしょう。
だから「道徳の授業」は、このような障害をできるだけ低くし、平均値を狙い、有用性を説く。
ですが、道徳には障害が不可欠なのです。
いやむしろ、
「障害〈にもかかわらず〉、そしてまさに障害〈のおかげで〉なしうることがなしうる」ようになるのです。(「道徳の逆説」136頁より)
「拒否の拒否」、
そして、
「〈かかわらず〉と〈のおかげで〉の同居」、
これをジャンケレヴィッチは「道徳の逆説」と表現しています。
他にも「逆説」はありますが、
この側面を忘れてしまうと、たんに道徳を語るだけの評論家になってしまいます。
道徳とは、「いい人」になることを目指すものではありません。
道徳とは、日常的な有用性とは全く別物です。
これはジャンケレヴィッチが繰り返し強調することなんですけど、
例の「心のノート」は、
「ウソはついてはいけない」という誘導をしていて、
これは深く考えるという面倒を避ける配慮と言えます。
そしてこれはまた、罪悪感という刷り込みによる強制とも言えるでしょう。
あなたの家にナチスのレジスタンスが隠れている。
そこにナチスが巡回に来る。
ナチスの質問、「ここにレジスタンスはいるか?」
にあなたは何と答えるでしょうか?
「道徳」を議論する際に、
この問いがしばしば提示されます。
ここに至って「ウソをつかない」と
答する人は少数でしょう。
なぜならボクたちはすでにナチスの所業を知っているからです。
ですが、これほど明白な悪と向き合うことは、それほど多くはありません。
大抵は、「ウソをつくかつかないか」発展の
を自分で判断しなければならないのです。
しかも「待ったなし」で。
道徳の教科書のいかがわしさは、どこにあるのでしょうか?
端的に「口先だけ」に所在する事でしょう。
つまり、「道徳を語る当の本人の行いはどうだろうか?」というめちゃくちゃ当たり前の話しです。
「重要なのは、華々しく、気が利いていて、雄弁なことではなく、本当に行動することだ」「徳について」232頁より
テキストを教えるだけの人、
あるいはテキスト通りにする人は、
自分の義務を放棄した偽善者になってしまうのです。
ジャンケレヴィッチの行動は常に、
自由から疎外されている弱者のためにありました。
そのような弱者を彼は「隣人」と表現していました。
さて、ボクたちが命を捧げられる隣人は誰でしょうか?
家族か友人か?あるいは子供たちか?
ボクたちは、いつだって道徳の先生になってはならないのです。
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