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電撃電影館① 進化する映画鑑賞の形

初めての、映画

生まれてから、初めて劇場で観た映画は、『ゴジラの息子』だった。
片田舎の映画館で観た衝撃は凄く、幼い自分を映画の世界に引き込むには、簡単で強烈な世界がそこにあった。
初めてテレビで観た映画は、『SOSタイタニック』だったと記憶している。月曜ロードショーだと思うが、最後の海面に楽器が揺れ流れるシーンは、幼心に猛烈な記憶を焼き付けた。
そこから、祖母と一緒に毎日のように、テレビ映画の西部劇を観たり、ジョン・ウェインに憧れたりと、自分の自由時間は映画になった。
反面、それだけ触れる世界が多く広がったので、小学生の時、同じ年齢の同級生と公園で遊んだりという、普通なら当たり前に過ごす子供時代から完全に外れた。
外でボールを投げたり蹴ったりするよりは、昼の映画放映を観た方が楽しいになり、外で遊んだ記憶が、一切ないし、遊ぶ気もなかった。自分にとって友達との玉遊びは、馬鹿らしくてできなかったのだ。映画の中に広がる世界の価値よりも、公園で遊ぶ価値を見出せなかった。スポーツは観戦するものになったのも、自然の流れ。
10歳の時、NHKの世界名作映画枠で、『カサブランカ』を観る。ハンフリー・ボガートの男臭さとイングリッド・バーグマンの美しさと魅力に、完全にしてやられた。
10歳でそれである。小学校に行き、同年代の話す内容が、むしろ聞くに堪えない罵詈雑言にしが思えなかった。自分はもう、ある意味大人だったのだ。なので小学生時代の友達等、一切いない。話が合わないというのは致命的である。だが、合わないのだから、仕方がない。仲間は一生だが、友達はそうではないと、12歳で覚えた。
とはいえ、小学生がその時代学校で話すのは、思い出せば、親の目を盗んで『11PM』を観たとか、そんな大人への階段を興味本位で登る話ばかり。今でもきっと、それは不変だとは思う。

日常生活の中の映画

少し前まで、映画のテレビ放映は、毎日だった。それは水戸黄門や特捜最前線の再放送のような物で、今でも相棒の午後4時からの再放送、暴れん坊将軍の早朝再放送に通じている。
月曜ロードショー、水曜ロードショー、木曜洋画劇場、ゴールデン洋画劇場、日曜洋画劇場を週のメインに、毎日昼の午後のロードショー枠。邦画劇場での少しエッチな青春映画にときめき、深夜の放映には、ビデオのタイマー録画を使う。
深夜の放映映画を観ていると、ハウスのフルーチェとコルゲンコーワのCMに詳しくなり、それは今でも変わらない。過去は、そこに宝石商や海外アーティストの日本公演のチケット情報等があった。一時期、そのチケット情報CMに価値が発生した時もある。

高額だったビデオカセットテープ

ビデオデッキの値下げは、映画鑑賞に劇的な変化をもたらした。
120分のビデオテープは万から6千円、4千円、千円、千円以下となる。家電の進歩の歴史でもあるが、20分のテープにHGと名付けられ、数千円というふざけた時代があったのも確か。
そのテープにテレビ放映の映画を録画し、一喜一憂。3倍速の録画システムの登場は、画質を質より量に変えた。
そしてレンタルビデオ店の登場。一泊二日で当時映画が二本観れる金額で、レンタルビデオ店は、できたら潰れるを繰り返した。
どんな映像記録媒体も、広まり、単価が安くなるのは、エッチの力だと昔から言われ、パソコンの時代になっても同じく。レンタルビデオ店の存在が知らしめられたのは、昭和天皇崩御からの数日と、云われている。通常のテレビ放送がなく、ならばと、レンタルビデオ店を利用した。
レンタルビデオが文化になった時、テレビ録画した元高額のビデオテープは、すべて燃えるゴミと化した。尺をカットされた映画ではなく、オリジナルが簡単に観れるようになったから。

80-90年代の映画館

ビデオテープが燃えるゴミになるまで、約10年間。映画館は、どうだったのか。
この時代、邦画は任侠実録物が飽きられ、和製パニック映画は『日本沈没』等から比べると盛り上がらず、年末お盆の寅さん映画以外、良くも悪くも角川映画中心。
ゴジラに代わり金田一耕助が登場し、各映画会社を席巻。洋画は、パニック映画全盛からSF大作に移行し、当たり外れの明暗がはっきりとする作品が多くなる。自分の経験からすると、良くも悪くも、分水嶺はスピルバーグ監督の『1941』だと思う。今まですべての映画が売れていたスピルバーグ監督作品が80年代頭に失速。面白い映画だけど、成功したとは言えない作品に閑古鳥が鳴く。その後インディ・ジョーンズシリーズや『E.T.』等で映画館からの信頼を戻すが、配給会社や制作会社により作品収益の差が出て、映画がより博打度が増す。
大きな箱、多くの座席を持つ洋画専門映画館の運営が斜陽するのもこの頃。『風と共に去りぬ』のリバイバル上映を観た際、大画面の映画館で上映されるも、観客は自分を含めて3人だった。リバイバルとは聞こえが良いが、上映できる新作がない、という意味でもある。
ただし、まだシネマコンプレックスのシの字もない時代。まだまだ映画館は、淫靡な気配が漂う空間だった。いつもは成人映画しか上映していない映画館が、夏休みの期間だけ売れ筋映画がかかったり、アニメフェア的な映画がかかると、それはもうドキドキしながら観に行ったものだ。普段は入れない禁断の世界を、自分の目で確認できるのだから。下品なまでの金色のカーテンに、日活のロゴ刺繍。それだけでも満足。
大作洋画の間をぬうように、サタデー・ナイト・ライブの面子の映画が徐々にかかり始める。これは前述した『1941』に共通する出演陣が多く、テレビ東京系の深夜番組を観ていない限りは日本では有名ではなかった面子の主演作が増える。『ブルースブラザーズ』『パラダイス・アーミー』『ゴーストバスターズ』等、この系統は『ビバリーヒルズ・コップ』まで続く。『1941』は作風の時代が早かったのと、スピルバーグ監督のコメディ演出との相性の悪さによるとされる。
他、スタローン映画、シュワちゃん映画もスマッシュヒットを継続。そして『1941』の脚本を書いたロバート・ゼメキス監督『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の存在が大きく、ビデオの価格が1万円を少し超える程度で販売され、MTV時代も到来する。
レンタルビデオ店も80年代後半になると価格が下落し、『ロボコップ』上映時には、ビデオ発売は一年以内に発売されないというCMまで流れた。

また、映画を上映している映画館で、その映画のビデオを販売するという、なかなかにうがった商売をする配給会社も現れた。
映画の興行として、ビデオで観るから映画館では観なくなるという意見もあったが、実際、そんな事はなかった。むしろ、映画館との相乗効果になったのは確か。
だが、この両者が近付く事で、大画面の大きな映画館の淫靡さは、その存在を失うのだ。

バブル時代の到来

ビデオの普及は、まったく映画館に悪影響がなかったかというと、あった。
まず名画座の存在に影響し、バブルの地上げ問題にもかかわり、各地の名画座の閉館が相次いだ。
跡地は、土地が家賃でなければ、今の単館系映画館になり、そうでなければ、マンションかパチンコ屋、という光景が、日本全国規模で起きた。
そして映画会社の直営である映画館、シネコンこと、シネマコンプレックスが各地に登場する。最初は、大規模ショッピングセンターができる場合の併設扱いだったが、その効果から一気に全国に広がり、映画会社が、既存の興行組合が運営する地域の映画興行網から、直接自社映画館による上映に踏み切った。
もちろんこれには、映画会社と興行組合、そして映画館主との、昔からのしがらみの清算の意味もあっただろうが、それは理由のひとつ。大きな箱の映画館の老朽化が一気に来たのもあった。消防法等の関係法令も時代に合わせて変化し、大きなスクリーンの映画館は、本当に、あっという間に消えた。やはり跡地はマンションかパチンコ屋。諸行無常である。
だが、70mm映画等、大画面で上映する映画がある限り、そういった映画館は生き残る。

世紀末から新世紀へ

世紀が変わると、シネコンの問題点が数々露呈した。
郊外型になった反面、地域の映画館がなくなり、遠出する必要が発生した。映画館そのものが小さくなり迫力がなくなった。まるで家で映画を観るような感覚でいる迷惑な客が増えた。前売り券の意味がなくなった。
シネコンは、映画館ではないという極論まで飛び出したが、これは一時期、自分もそう思っていた。ポップコーンの香りが映画館の香りだと思っていたが、扉を開けたらナチョスの香りしかしなかったのは、正直、衝撃だった。
同時に、映画の料金も高額化する。パンフレットを一冊買うなら、その額で外食できる。映画を観るなら、その額で美味しいご飯が食べられるとなると、どちらを優先するかという天秤が毎回起きる。
そしてテレビの映画放映でも変化が起きた。月曜ロードショーが終了したのを皮切りに、どんどんテレビから映画放映の機会が減る。60年代以前の映画をテレビで放映しなくなるのは、この頃からになる。
深夜の映画放映も、全部買い物通販番組に切り替わった。
昔の映画を観る機会も同時に減った事になり、大晦日や正月のお約束だった、深夜に長編映画を観るというのも、なくなった。『史上最大の作戦』『バルジ大作戦』は、遠き過去に消えた。2022年の正月に、『戦場にかける橋』が深夜放映され、我らの正月が戻ったと、歓喜した者らも多い。
逆に、レンタルビデオを借りて、自前で深夜放映を再現できるようにもなっていた。
映画館が変わったという意味は、客層も変わったという意味にもなる。見事この段階で、淫靡な雰囲気を持つ映画館は、日本から姿を消した。
尚、衛星放送に関しては、当初は専門チャンネルもなく、同じ映画を月に何度も放映するサイクル状態であり、それがレンタルビデオ店の代わりになる事はなかった。
また専門チャンネルにしても、昭和50年台前半に某映画会社が、過去作品のフィルムを、倉庫を広げる為という理由ですべて焼却してしまう焚書坑儒が起きた。尚これは、セルビデオとしての価値が見い出される前の話である。なので専門チャンネルに作品群が揃うのに、時間が必要だったのだ。
専門チャンネルが台頭するのは、00年代後半からだが、その影響はすぐに知識の年代乖離という形になる。各種テレビ番組に関して、番組を生で観ていた50代と、専門チャンネルで番組を観た10代20代の話が合い、観ていない30代40代と話が合わないという腸ねん転が発生し、今でも笑い話になっている。

燃えるゴミが宝物になる

さて00年代後半から、燃えるゴミと化したビデオテープに脚光が当たる。
DVDやブルーウェイディスクの特典として、日本語吹替の、テレビ初回放映分等が付録として扱われ、収録されるようになり、空前の、吹替大捜索が始まった。
特に需要があったのは、月曜ロードショーの、東北新社系の吹替で、イーストウッドやブロンソンのB級西部劇は、全国各地の収集家に、もれなく声がかかった。
ただ、燃えるゴミ扱いだった品が、多く残っている筈がない。すでに処分されてしまったテープは多かった。現在、多くの特典吹替は、どうしてもテープを捨てられず、そんなゴミをどうするのと家族に白い目で見られた映画ファン達の、涙の結晶なのだ。
考えてもみてほしい。一本数千円で購入し、レンタルビデオ店もない時代に、好きな映画作品を録画し、何度も観た思い出の品。これが一本六千円と思えば、そう簡単に捨てられる筈はないだろう。
また高額なビデオテープ程、白カビの発生が起きない不思議もあった。それだけ、きちんと作られていた証でもある。安くする為に、色々と引き算された結果、数十年後に違いが明確に。
またテレビ局での映画の吹替の扱いは悪く、再放映の度にカットされ原版が捨てられ、最終的に、紛失する。だから、外に求めた。
自分は、声を大きくして、言いたい。

『どんな理由であれ、断捨離は、文化文明を破壊する』

失われた職人技

最近の金曜ロードショーで、『ローマの休日(吹替新録)』『ショーシャンクの空に(吹替ソフト版)』が放映され、世間では期待されたが、いざ上映されてみると、不評の嵐だった。
これは、吹替が悪いのではなく、編集の問題。今、両作品はビデオでも配信でも観れる状態。テレビは放映時間の関係で、尺を切らないとならない。これは昔からだが、本編への影響が少ない部分を切る職人技が昔はあった。ところが、その技がテレビ局でも失われており、切るべきところではない部分を大量に切られ、ノーカッド版を観慣れた作品のファンから、総スカンをくらったというだけの話。使わなければ、技術も、廃れるのだ。

生活の中の、新しい映画鑑賞の形

自分はシネコンに行かなくなってから映画館に足も運ばなくなり、近所のレンタルビデオ屋も潰れてなくなった。
結果、映画を観るには5駅、映画を借りるには3駅先に行かねばならないという状況になっている。これは、中小のレンタルビデオ店が、街に出店した大規模店に全部潰され、その大規模店が思った以上に利益が上がらず、撤退した為に、焼け野原になったから。古本屋も同じで、完全に過疎地域になった。本や映画は文化である筈なのに、それをただの銭儲けにしている会社が、各地に過疎地域を生み出している。諸行無常。
最近は、専ら、配信ばかり。大画面も映画館、シネコンも映画館、家のモニターも映画館なのだと、今は納得している。

どんな形で観ようと、映画は映画

00年代、ある映画サークルの方と、お話をした機会があった。
高齢者が多くするサークルで、小冊子を年に数回、発行しており、若手の加入をとすすめられたが、話が、相容れなかった。
彼らは、戦前に観た映画を至上とし、自分らはその映画を観れた。フィルムの消失や焼失で、その映画を観れない今の若者は可哀相だというスタンスで、所謂マウントのエベレストを狙うような集団。
淀川長治氏は、戦前の映画で、現在存在しない映画を、今そこで上映しているように、想像できるように、親切丁寧に話していた。それが役割なのだと。ところが、そのサークルは、まったくの逆。
何より許せなかったのは、彼らに言わせると、ビデオやDVDで観る映画は、映画ではないそうだ。映画は、やはり映画館で観ないと映画ではないと。その考えには理解できる部分もある。自分もいち時期、シネコンに拒否反応があったからだが、ここまで捻てはいなかった。
「人生の先輩方の意見はわかりましたが、自分は入院している人や身体の不自由な方達に、映画が観れなくて残念だと言う程、顔の皮は厚くありません」
そう堂々とお答えし、辞した。
反面、映画の専門学校に通っているという若い衆と話す機会もあった。名作映画の話になり、色々話したが、その若い衆は教えてもらった作品を観た上で、名作という概念をすべて否定してきた。感性が合わなかったのかと思ったが、そうではなかった。
「白黒映画って、映画でないですよ。技術がない時代の、古臭いだけの作品に価値なんかありません」
思わず唖然とした。だがそういう考えもあるのかと思った。その若い衆は卒業制作を作れずに、卒業二ヶ月前に自主退学し、映画とはまったく関係ない別の専門学校に行ったそうだが、どこに行ったのかすら、興味はないが、きっとどこかで自分の理想を追っているのだろう。
映画の配信は、昔の、60年代の映画を昼間放送していた、あの時代の空気に似ている。巡り巡って、好きな時に好きな映画が観れるというのは、きっと幸せな人生だと、最近は思う。

(続)

以下自作宣伝。

#映画館の思い出

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