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原宿70’s-80’s

原宿という地名(1965年で消滅し正式には「神宮前」)が自分史に登場するのは1970年代の半ば。吉田拓郎が「今夜もしたたか酔って」いた「ペニーレイン」。現在と若干場所は違うものの、やはり表参道を少し入った路地裏にその店はあった。当時新しい「アイドル像」として時の人になっていた拓郎、そしてテレビにはあまり出てこないアーチストを一目見ようと、店の周囲は若者であふれていた。修学旅行のシーズンには自由行動のルートに組み込んだのだろう、制服姿から一目でそれとわかる集団が出待ちのようにうようよしていた。当時高校生だった千葉の少年も同じようなもので、何度か休みの日に出かけて行っては友人と「いたらどうする?」といいながら、わずかな所持金で店に入りランチのそぼろ弁当を食べて帰ったりした。もちろん誰にも会うことはなかった。

1978年、日頃の行いの賜物か、晴れて浪人生となり京王線沿いに一人暮らしをはじめ代々木の予備校とアルバイト(そして映画)に励む日々。原宿駅を降り同潤会アパートを左手に表参道から青山通り、青山墓地、乃木坂へ向かう道が休日のお気に入りの散歩道だった。

大学4年の時、何を思ったかアミューズの試験を受けようと、友人たちと1次試験であるペーパーテストを受けに行った。サザンオールスターズで急成長中の芸能プロダクションだ。会場に入ると、大学の大教室のようなところに人がびっしり、試験の内容というとこれが基礎学力を試すものから時事問題への考察まで難易度の高いこと。冷やかし半分とはいえ敗北感に打ちひしがれて、その夜表参道の路地裏の「養老乃瀧」でしこたま飲んだ。

新卒で入った最初の勤め先も、代々木駅と原宿駅を結ぶあたりにあった。自由な雰囲気の中で編集や広告制作に勤しみながら、夜は先輩・同僚と原宿や代々木の「アンコールワット」へ。まっすぐ家に帰るという日はほとんどない。なぜかウマが合った同期の女の子がいて、よく帰りがけに二人で竹下通り入り口付近にあるサーティワンに寄ってはアイスを食べていた。コンサートに二人で出かけこともある。昼休みに屋上で二人でぼんやりしていると「シズちゃん一緒に帰ろう」とか「今度野音行かない」とかいう話になるのだ。坂本龍一ファンで、ARB(石橋凌!)にもはまっていた。ほかの同僚とは違う、でも恋人同士ではない不思議なゆるい関係。その後、なぜか彼女が結婚したのは南こうせつファンの男性だ。今でも年賀状のやりとりはある。

こうして改めて思い出してみると、原宿界隈はなかなか青春の尻尾がぶらぶらしている。すっかりご無沙汰だけれど、歩けばまだあの頃の青臭さが少しは甦るだろうか。

見出しの画像は「めぐまつ」さんの作品をお借りしました。ノスタルジーと言われようが、新原宿駅はつまりません。

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