導かれるより、惑いたい。

吉田拓郎の「人生を語らず」に感化されるあまり「教えられるものに別れを告げ」すぎてしまったこともないのだが(ないと思う)・・・。街の本屋にあふれる「ためになる」「役に立つ」などという謳い文句にはどうしても一歩引いてしまう(もちろん資格取得などの関連本は別)。ましてや「〇〇のためにはこうしなさい」「〇〇になれる〇つの法則」などはもってのほか。「あんた俺の事わかっているの?」とココロの中で毒づいている何とも不遜な奴である。とはいえ、この手合いの多くに感じる拭いきれない怪しさは何だろう。惹句とは言えあまりにあざといその手口。それでも釣られる人の何と多いこと(広告の末端にいた人間とは思えない不埒な発言)と思う。そこから鯛が釣れることもあるのだろうが。

きっと何かに「導かれる」のがいやなのではないかと思う。テキはもちろん私個人を知らないのである程度一般化あるいは平準化して、求める人に応じてさらば与えんとなる。手法が優れていれば優れているほど、それは手を伸ばしたが最後抗いがたい「進むべき道」として提示される。あとは何も考えずに邁進するだけ。迷いは断ち切られ、心は晴ればれ。行く手を照らしてくれる素晴らしいカミサマだ。

これがどうにも苦手である。「誘導」されてたどり着く場所がどんなに美しいお花畑だと言われても、それがユートピアだととは全く思えない。ましてやみんなで同じ夢を見させられるなんて。私はまだ「誘惑」されたい。惑わされて、迷い込んで、迷いの森から自分だけの宝石を発見をしたときの悦びを忘れたくない(それが錯覚であっても。浮谷東次郎じゃないけど「俺様の宝石さ」)。そのために本を開き、音楽を聴き、映画や芝居を見る。62歳。アウトロダクションはまだ弾かない。

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