
古き良き時代の五木寛之
ギターだベースだと忙しく、読むものといえば音楽雑誌ばかりだった高校時代、愛読していた数少ない作家のひとりが五木寛之だった。きっかけは「青春の門」、伊吹信介の成長と挫折を描いたいわゆるビルドゥンクスロマンの大作。筑豊編から始まり自立編・放浪編・堕落編・望郷編(読んだのはここまで)と、性や暴力、政治や享楽、信頼と裏切り、すべてが詰まったダイナミズムのとりこになった。そして20代のなかばまでだろうか「さらばモスクワ愚連隊」や「青年は荒野をめざす」といった初期作品から「戒厳令の夜」「ヒットラーの遺産」「風の王国」などを文庫本で次々に読了。闇に埋もれている歴史を掘り起こし、エンターテインメントに昇華させる巧みなストーリーメイクに夢中になった。「風に吹かれて」や「ゴキブリの歌」などのエッセイ、野坂昭如や井上陽水などとの対談も若い知的好奇心を大いに刺激した。サンカ(山窩)と呼ばれる漂泊の人々の存在も彼の著作を通して知ったのだ。
80年代後半あたりだろうか、それまで夢中になって読んでいた五木寛之をぱったりと読まなくなった。学生時代に通ったジャナ専の影響で関心がルポルタージュに傾いた事もあるとは思うが、それより何より五木寛之という作家が大家として「おさまって」しまったように感じたことが大きい。90年代に入り「蓮如」や「親鸞」を著す頃には遠い存在に、その頃から多くなる人生論・人生訓の類に至っては「もう食べられません」というのが正直なところなのだ。
とはいえ、五木寛之の根幹をなしているといってもいい「デラシネ(根なし草)」という言葉に、一人の若い単細胞が抱いた無垢で他愛のない憧憬は、その後多少は大人になった(と思われる)彼のモノの見方に少なからず影響を与えていることに今更ながら驚く。エンターテインメント恐るべし。