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石垣りんエッセイ集「朝のあかり」

文庫新刊の平積みからふっと手に取った一冊。「どうだどうだ」と主張するニューフェイスの中で、そっけない装丁が逆に目をひいた。石垣りんという詩人は名前こそ知っているものの、詩集も読んだことはなく「りん」という響きのよさだけで頭の隅にとどまっていた。中公文庫のオリジナルエッセイ集。

石垣りんは1920年生まれ、2004年に亡くなっているので親のさらに一回り上の世代だ。戦前・戦後と銀行の事務員として生家の家計を支えながら詩作を続け、55歳の定年を5年後に控え1DKのマンションに居を移す。この本は生涯独身だった彼女が1960年前後から1980年代にかけて、銀行の行友会誌から現代詩手帖などの雑誌、新聞各紙に掲載された散文を集めたもの。てらいのない平易な文章で、暮らしの中の心の動きがていねいに綴られている。こういう本は、筆者の生活のリズムをつかむようにゆっくりと読んだ方がいい。

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。

「表札」

「りん」という名前がそのまま詩になっているからズルい。なんだか茨木のり子の「自分の感性くらい」を思い出してしまう。こまやかな日々へのまなざしがなければ詩などは書けない。このエッセイに綴られた暮らしぶりからそのわけがわかる。

最近の企業が、
人間とか
人間性とかに対する心くばりには、得体の知れない親切さがあって
そこに足の立たない深さを感じると、
私は急にもがきだすのだ。

「藁」

職業詩人・谷川俊太郎と言葉へのアプローチはだいぶ違う。谷川俊太郎のようにどこか悪戯のように「毒」を盛り込むそれとは違って、石垣りんのそれは呟きのように紡がれる。どちらも魅力的で、どちらも心してかからねばならない。そういえば谷川俊太郎の詩集は「朝のかたち」でこちらは「朝のあかり」だ。だからどうということではないが。長く銀行という職場から世の中を見てきた彼女のまなざしは「はたらく」という章にまとめられている。

ということで「朝のあかり」を読んでいる。実はまだ終章の80頁はこれからだ。「齢を重ねる」というチャプターなので、その前にちょっと一息入れてから。欲を言えば、70余掲載されている各篇ごとに初出の年月を入れてほしかった。巻末にまとめて一覧はあるのだが、掲載された文章は20年以上にわたる時の流れがあり、その時代や彼女の年齢をじかに感じながら読むためには少しまだるっこしい。



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