井上ひさしを売る。
第一次蔵書整理がほぼ終わった。500冊位は減ったと思う。しばらくは増やさぬよう減らさぬようキャパシティを考えながら適切な管理を心がける(つもり)。本を一気に処分するときは、1冊1冊吟味していては埒があかないので、たとえば作家まるごとドーンとおさらばしてしまう。今回も数名の作家がその対象となった。多くは勤めていたころ、とにかく軽く読めればいいと買い求めていた小説家のたぐいで、今後改めて読みたくなることもないだろうと思う方々。仕事をやめてみると、それらがあまりに退屈すぎていかに自分が疲れていたかがよくわかる。少しは回復の基調にあるのかも知れない。そのぶんフィジカルは着実に衰えているけれど。
最後まで迷ってようやく処分することにした作家が井上ひさしだ。出久根達郎氏の「漱石を売る」は書簡だがこちらはオール文庫本なので額はないも同然。それでも40冊位ある。「吉里吉里人」や「ドン松五郎の生活」といった小説から「しみじみ日本・乃木大将」などの戯曲、言葉にまつわるエッセイ、紀行、対談・・・。「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に」というモットーはものを考える上での参考にもなったと思う。それより何より井上ひさしは幼い頃夢中になった「ひょっこりひょうたん島」の作者なのだ。
彼に疑念をいだくようになったのは、誰もが知る前妻の西舘好子氏によって詳細が明るみになった家庭内DVの事実。顔が変形するほど殴る、鎖骨にひびは入る、鼓膜は破れる・・・その熾烈さは「妻を殴った」というレベル(それだって)のものではなく、これが暴行・傷害の類いではなくて何だというものだった。人権の人として知られ「遅筆堂」などといっていい気になっている裏の顔がこれかよ、そんな感情が脳裏にピタッと張り付いて離れなくなっていった。昭和の話だから、ではない。同時代を生きた自分から見てもそれは鬼畜の仕業としか言えない惨たらしさだ。
井上ひさし自身も家庭内の暴力に触れていないわけではないが、前妻の暴露のあとはほとんど黙して語らずだったようだ。それが男らしい(うわっ)と思っていたのかどうかは知らない。坂口安吾や太宰治のような自らをさらけ出すタイプの作家には批判的だったとも聞く(ちなみに「弱さも含めて自分だもんね」というクリエイター、ワタクシは嫌いじゃありません。しかし付き合ったら大変)。
「言葉(母語)とは精神そのもの」といっていた「言葉の魔術師」は、哀しきかな家の中では拳しか振えなかった。作家が善き人である必要はまったくないが、この非道の上に成立した作品たちにはそろそろオサラバしよう思う。
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